自分は時代の一瞬でしかない。なにも残らないかもしれない。でもだからといって生きることやものをつくることが無意味なのではない。(石橋)
―これは英子さんの旅であり、満州にいた父の旅でもあり、同時に「いまの時代」についての話でもあるとおっしゃっていました。お二人は「いまの時代」をどう捉えているのでしょう?
石橋:父が生まれた1930年代の空気と今の空気は、本質的には実はそんなに違わないと思っています。
1930年って、そんなに前のことじゃないはずなんですよ。たった80年前くらいなのに、知らないことのほうが多いし、その時代に生きていた人もまだ生きているのにこんなに感覚を共有できていないとなると、自分たちがいま感じていることも、いずれたやすく消えていくだろうなって。インターネットのようなテクノロジーをもってしても、本当に大事なものっていうのは残らないんじゃないかという予感がある。
―残らないのかもしれないという予感があったうえで、残したい大事なものがアルバムに入っているということですか?
石橋:そこまでは考えていないですね。残らなくてもいいと思っているし、そこはもうつくりたいからつくっただけというか(笑)。残す/残さない、残る/残らないというのは、私が決められるようなことでもないし、音楽は音楽でしかないと思っています。結果的に自分が音楽に助けられてきたようなことはこれからも起こると思うけど、私には音楽で残したいものがある、とそこまで言うことができません。
―前にお二人の対談で、音楽と照明というのは似ているというお話を読んだんです。音楽は、なにかをがらっと変えたりはしないけれど、どこかに光を当てるものだということでしょうか。
石橋:そうですね。音楽は時々ものの見方を提示することはできるかもしれません。私の人生にとってはそれがとても大事な真実として記憶されています。でもみんながそう、というわけではないと思います。
作品のテーマに関して調べているときに見た光景や想像した物語のなかで、あれは私だったかもしれないと思いながら曲をつくっていきました。たとえば土に埋められたのは自分かもしれなくて、だとしたら、眠っている間にいまの時代をどういうふうに見ているのだろう、と考えたこと、それが『The Dream My Bones Dream』(あれは私の骨が見る夢)というアルバムタイトルにも反映されたと思います。
音楽もお芝居もそうだと思いますが、大きな意味でも個人的な意味でも、歴史を無視することはできなくて、自分は時代の一瞬でしかない。なにも残らないかもしれない。でもだからといって生きることやものをつくることが無意味なのではなくて、というより、一見無意味なものや非生産的と思われることのなかにこそ希望や光があるのかもしれないとさえ思います。
力強い答えに振り切れてしまうことのほうが、世のなかには多いと思うんです。(藤田)
藤田:“To the East”の歌詞を見て感じたのは、僕も上京組なので、「東へ行けばなにかが変わる」という強い気持ちに突き動かされてきたけど、結果そこには上京する前よりもくだらないものしかないというか、いいものは別になにもなかった、みたいなことってあるなあと思っていて。いざ目的地に行ったのになにもなかったということをいまは知っているのに、それでも未来に期待していた頃を思い出して胸がうずくことはある。
見てしまったものと、見ていなかった頃の両方を行き来する移ろいそのものが肯定されてる。もっとどっちかにーーたとえば見てよかったとか、見ないほうがよかったとかーーそういう力強い答えに振り切れてしまうことのほうが、世のなかには多いと思うんです。でも、英子さんの音楽はそうは言わない。行ってみたけどそこにはなにもなかったというなにもなさと、期待する輝きの両方を描くことって、すごく大事なんじゃないかなと。
―答えを出さずになにかを期待することそのものや、なにもなかったことの両方を行き来しているような曖昧さが、いわば「完成形」として提示されているということですよね。旅にたとえれば、「目的地にたどりついてよかった」ではなくて、まさに移動しているときに感じる、なにかがあると信じて、さまよい探しているときにこそ希望がある。
石橋:それを繰り返していく人間の営みというか、過程に輝きを見出す人間の心。希望があるとしたらそこなのかなという気もします。どこに辿り着くかどうかはみんなわからないですからね、本当に。
藤田:音楽だと聴き終わった後やライブに行った後、観劇を終えた後のことに、責任を持とうとするつくり手たちがいるじゃないですか。でも僕はそこには責任を持てない気がしていて、今日観劇しに来た人の中に翌日自殺している人がいるかもしれないということを、演劇をやりながらよく思うんです。
なにかのきっかけになってほしいというより、作品は100人来たら100通りの通過点でしかないというか、通り過ぎていくだけだと思う。作品と観客が出会ったときになにかは起きるかもしれないけど、そこから先はあなたたち次第だからという態度でしかいられないのかなって。まあ本当にスルーするしかない作品もあるんですけど……(苦笑)。
石橋:確かに、つくり手が責任をとろうとしなくてはならないという風潮が、最近は多いかもしれません。でもそういうものはなくてもよくて、説明もしなくていい。わからないまま、ゆだねてもいいですよね。