それぞれの人にそのときどきの気持ちがあるのに、そこにコミットできない演劇や演目ってなんだろうなって。(藤田)
―マームとジプシーの新作『BOAT』も、タイトルからしてここから別の場所へと向かうイメージですが、公演にまつわるテキストに「現在という、ほんとうのことを、舞台のうえで繰り広げていきたい」と書かれていて。この作品にも、藤田さんがいまをどう捉えているかという視座が込められているように感じました。
藤田:いまはまだ全然できてないんですけど(笑)、島国を描きたいと思ったんです。たとえば去年だと北朝鮮からやたらと船が漂着したりするのに、無関係な態度をとりたがったり、自分たちのなかにあるその国のイメージだけで済ませちゃう。でも、僕的には、たとえば何十年か後とかに、それと同じ状態にもし日本がなったとして、ボートを走らせて、この国を脱出しそうな人も出てきそうだなって思うし、そのとき、海を超えた向こう側の人たちに同じ態度をとられてもなんにも言えないな、と。大陸と海を隔ててこの国が存在していることについて、2018年の現実としてだけではなく、いつかの現実としても描きたいなって。
―マームとジプシー自体も、名前にもジプシーという言葉が入っていたり、設立10周年のときにも「ツアー」と銘打って藤田さんが「この旅を終えたあと、ぼくらはなにを想うだろう」と書かれるなど、ひとつの場所にとどまらず、旅を続けることや漂流することを大切にしているような印象があります。
藤田:それで言うと、20代の頃よりもツアーに対して捉え方が変わってきていますね。京都でジムさんのライブ観たときにも思ったんですけど、音楽がすごくいいなって思っているのは、演劇よりも「演目」にならないところ。
演劇は台詞や演技がほぼ決まっているから、観客は固定の演目を観るしかないし、それを劇団のそのときのすべてだと思ってしまう。一方で、英子さんのライブは、ジム(・オルーク)さんが途中でくだらない音声を入れてきたりして(笑)、即興性が高くて。かっちりした曲も演奏されていたのに、観客も含めた全員がこの人たちは「これだけじゃない」っていうのが、わかっている感じがすごくよくて。
石橋:あれはおかしかったですよね(笑)。
藤田:そういう意味で、演劇におけるツアーの危うさを感じています。最初にそれを感じたのは、『cocoon』のツアーをやったとき(2015年)。僕は戦争ものの映画を観るのに自分の気持ちをチューニングする必要があるんですけど、演劇って地方だと1、2日しか公演がないこともあって、その限られた日に向けて、観客のみなさんは、戦争ものを見るためのチューニングができるのかな? それって大変なんじゃないかな? って。
藤田:だからこの前の『みえるわ』のときは、複数演目用意して、演目を事前に発表をせず、各回どれが上演されるかわからないようにしました。各演目衣装のデザイナーさんを変えたので、そのデザイナーさんの衣装を見たい人が見られなかったりもしたし、運営もめちゃくちゃ大変なんだけど(笑)、マームとジプシーのどこかの側面にふいに出会ってくれればいいなと。
石橋:事前になにやるかわからないっていうのは面白いね。演目を書かず、ツアーメンバーとかも発表しないで。
藤田:そうそう(笑)。そういうやり方だとあんまり大きい劇場でできないし、告知も大変かもしれないんだけど。でも、集客が大事という話にしても、僕はそんなにたくさんの人が全てを観に来なくてもいいと思うんですよ。それぞれの人にそのときどきの気持ちがあるのに、そこにコミットできない演劇や演目ってなんだろうなって。そこをもっと柔軟にやっていきたい。
旅をすることで、実は日常のほうがドリームに見えてくるかもしれない。(石橋)
―ライブや演劇は本当はたった一度しか起こらない一回性のものなのに、やる側も観る側も固定の演目として捉えてしまう懸念があるということですね。
石橋:音楽もそうですよ。セットリストもばっちり決めて、この曲で必ず盛り上げて、みたいなツアーってものすごくたくさんある。それが全部だめってことではもちろんないんですけど、わからないものを見に行く楽しさを支える文化的土台がもっとあるといいですね。楽しいとわかっているものにしかお金を払わないっていうことは本当に寂しいなって思うので。
藤田:そんなふうに隙のない上演をめざすなら、録画して全国にまわせばいいじゃん! って思うような公演をしている演劇も多いから、それってどうなんだろうって。「旅」や「ツアー」というとかっこよく聞こえてしまうけど、それってつまり、自分の居場所がわからない感じでものをつくったり生きていったりすることが大事だということで、自分のいるところを確かなものとして固定しちゃいけないんじゃないかなって最近思っています。
―これは少し大きい話になってしまうんですけど、人は日常を離れて、どこかへ行きたくなったり、旅に出たくなったりしますよね。その感覚と、いま藤田さんがおっしゃっていた自分の居場所を固定させないことは、どこか共通するところがありそうです。日常と非日常を行き来する意義のようなものを、最後にうかがえますでしょうか?
石橋:根源なものに向かいたい欲求があるんでしょうね。子どもはそういうものの連続で、日常と非日常の認識もなく、その境目を行き来するじゃないですか。大人になっても、なにが本当なんだろう? と探し求める感覚はずっと残るのだと思うし、それを取り戻すためになにをすればいいかいうときに、旅に出ることを思いついたりするんじゃないかな。
でも実際の旅には、すごく現実的なものがあると思っています。日常を送るよりも旅をするほうが厳しさに出会うし、普段生きていたら知らないことを知ったりするし。いまは旅も命がけだけど、それでも旅はするほうがいいと思います。旅をすることで、実は日常のほうがドリームに見えてくるかもしれない。
藤田:僕も完全に同感ですね。旅をしているときのほうが日常を感じるというか。マームとジプシーは旅が多いので、衣食住もともにするし、旅の間もめたりもするし、家族じゃない人と家族っぽくならないといけなかったりする。非日常を味わいたくて旅に行くこともあるかもしれないけど、旅に出ると、本当にこういうふうにお腹がすくんだとか、そういうこと含めて旅のほうがリアルだなって思うこともある。どっちが日常でどちらか非日常かはわからないんです。でもそこを行き来することが大事なんじゃないかな。
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