たとえ錯覚だとしても、一瞬だとしても、ここに生きている人同士が、共振する景色を求めることはできる。(山戸)
ーおふたりとも共通して、『見られる』だけではなく「見る主体」であることへの熱量を感じます。そこに意識的であるのには、どんな理由があるのでしょう?
橋本:あるときから、まなざされることに集中するのを辞めたんです。一時期、まわりからの「橋本愛像」に自分を当てはめようと、他人の理想に囚われてしまっていて。「その人が好きな橋本愛」を演じている感じになってしまいました。
そうした時間が撮影現場だけでなく実生活にも影響し始めたとき、私自身がゆらぎのない、硬直したつまらない人間になっている感じがして、他人の理想と私の理想は同じではないと気づいたんです。自分の理想に肉体が追いつくために、意識的にどう見られているかに対して、鈍感になろうとしています。
そしてきっとそれは、山戸監督がおっしゃった「存在を取り戻す」ことに近いと思います。「嘘のない私を取り戻す」と言いますか。私は洋服や、ピンク色が好きなのですが、そこに固執しているのは、私自身を取り戻したいという気持ちからなのかもしれません。
ー山戸さんはいかがですか?
山戸:まなざす/まなざされるというのはそのときどきの役割にすぎず、重要なのは、橋本さんがさきほどおっしゃっていたように、監督と俳優が、あるいは自己と他者が、共鳴できる景色を求めながら、その二者間でしか生まれ得なかった世界を新しく見つけ出すということなのだと感じますね。
当然、ひとりひとりのものの見方は異なりますし、ニヒリズムの立場で言えば、まなざした先の世界が、完全に一致することはありません。『21世紀の女の子』の場合、監督15人の思想もそれぞれ全く違いますし、いま橋本さんがお話ししてくださったのと異なる考え方をもつ役者さんももちろんいらっしゃるかもしれない。けれども、このプロジェクトに携わったうちの一人の実感として、たとえ錯覚だとしても、一瞬だとしても、ここに生きている人同士が、共振する景色を求めることはできると感じました。そういう景色の存在を、完璧じゃない、今にも壊れそうなものだとしても、可視化してゆきたいですね。
なにが真理なのか見えにくい世の中だからこそ、逆に嘘によって真理や真実を見出だせる。(橋本)
ーおふたりがおっしゃる「同じ景色」というのは、これまで見たことのある景色をもう一度見ることではなく、「ここでしか生まれ得なかった新しい景色」を共につくり出すことですよね。そしてそれは、「追い求めていた真理」「見たかった世界」に近いものかとも感じるのですが、いかがでしょうか?
山戸:そうですね。過去社会に存在した、既存の物語をなぞることではなくて、個人的な探求の延長線上に、「新しい物語を求める」という行為が存在して、その新しい物語が普遍性を獲得してゆくこと。過去の歴史上、男性主体の社会前提には、具体の目標を掲げてひとつになろうとする組織的な連帯感が根付き、対して女性は、「家庭に入る」という段階で表向きには社会から離れることで、ひとりひとりが孤立し、あらゆる課題が個別的に放置されてきた過去があり、まだ解決されていないような現状にあります。女性の生き方についてどんな理想がありえるのかを考え形にしていく道のりは、まだまだ始まったばかりですし、困難もあるでしょう。
しかし、見通しの立てやすい景色がないからこそ、幻想や夢、嘘やフィクションのような「理想の嘘」の存在が、致命的に求められているとも言えるのです。新しい景色を追い求めることへの原動力を、根源的に強く秘めている。そこに射し込むのは、非常に細い光かもしれませんが、それでも、その可視化する瞬間は、ほんとうに尊いものだと感じられます。
橋本:「山戸監督はどうしてこんなに映画を信じているんだろう」と思っていましたが、そのひとつの答えがいまのお話にありました。『21世紀の女の子』のなかで山戸監督が撮った『離ればなれの花々へ』を観たとき、「映画がいちばん凄いものだ!」と表現されていたように、私は受け取りました。映画をひとつのツールや表現媒体だと思っている人もいるかもしれません。でも、山戸監督は今作も、このプロジェクト自体も、映画を信じる力の強度が圧倒的だと感じますし、それは映画がつくり出せる幻想や夢、嘘への希望からくるものなのだと感じました。
橋本:なにが真理なのか見えにくい世の中だからこそ、逆に嘘によって真理や真実を見出だせるのかもしれないというのは、私が映画やお芝居といった芸術がとても好きな理由とも通ずるところがあります。街を歩いたり社交的な場に行ったりしたときに、驚くほど垢まみれだと感じることもあって。つくる側にとっても観る側にとっても、映画という場所では、そうした垢がはがされるような気がしています。映画のスクリーンに映ったとたん、まがいものは淘汰されるし、本物はきらめき続けていられる。そういう世界が存在することは、私にとっても希望です。