『あたしたちよくやってる』。その言葉を聞いたとき、たったひとことなのに、胸にたまっていたもやもやがすーっと楽になって、軽やかになるような感覚が訪れた。これは、作家・山内マリコさんが数年にわたり書き、発表してきた掌編を集めた短編集のタイトル。山内さん自身が、自分の生き方を模索するために「いろんな人の言葉を採集してきた」と語るように、どの掌編にも親しみがありとっても読みやすくて、そのうえで、20代、30代、40代、そしてもちろんそれ以外の年齢を生きてきた/生きる可能性のある私たちに、翼をさずけてくれるお守りのような言葉がちりばめられています。
「小説家になりたい」という自分の夢を、25歳から追い始めたスロースターターだという山内さんに、苦しみ葛藤しながらも「自分」を知ろうと努力した人が楽になれるということ、そしていまの時代に、自己肯定感を高めるにはどうしたらいいのだろうか? ということなどについて聞きました。あたしたちは、よくやってる。どんどん楽になっていきましょう。
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20代まではフェミニズムにピンときてないというか、まったくわかってなかったんです。でも30代になって、上の世代の人たちが何を語っていたのか、やっと理解できるようになった。
ーまず、『あたしたちよくやってる』っていう言葉自体にどこか救われるような感覚がありました。どうしてこの言葉が出てきたのか、そしてさまざまな年齢、立場の「私」たちが出てくる33もの話を集めた短編集をつくろうと思われたのか、お聞かせいただけますか?
山内:この本は、ほぼ担当編集の三枝美保さんの功績なんです。ここまで編集さんに頼った本っていうのは初めてですね。タイトルも、私がバーっと候補をあげた中から、三枝さんが「これがいいです!」って選んでくれました。考えたのは自分なんだけど、私にはこれがベストとはわからなかった。三枝さんのおかげです。
そもそものきっかけは、単行本の3つ目に収録されている『自分らしく生きることを決めた女の目に涙』というすごく短いお話で。これはもともと、雑誌『GINZA』に掲載された、時計ブランドとのタイアップだったんです。以前、三枝さんが「これ良かったです」「いつかこういう本を書いてほしい」と言ってくれたことがあって、すごく嬉しくて、憶えてたんです。去年『ここは退屈迎えに来て』が映画化され、そのプロモーションでよく会ってたときに、三枝さんとゆっくり話せて、雑談してるうちに企画がみるみる持ち上がり……そして三枝さんがあっという間に本にしてくれました(笑)。
ーでも、ある意味では、夢へと向かう日々の途中の断片の集積のような一冊とも言えそうですね。
山内:たしかに。作家って、長編小説をじっくり書くというのが大きな仕事だけど、それ以外にも日々細かな原稿も書いていて。でも、雑誌に出した短い原稿は、そのあと自動的に本になるわけじゃない。基本的には1か月だけ世に出ておしまい。こういう仕事のおかげで文筆だけで生活できてるので、大事なんだけど、ものさびしさはあって。そういう作品たちがたまってきていたのを、三枝さんがまとめてくれたのが今回の本なんです。
こうやってちゃんと本にしてもらわなかったら、書きっぱなしで誰の目にも触れなくなってしまっていたかもしれない無数の原稿。それを三枝さんは落穂拾いのように……。
三枝:落穂拾い(笑)。
ーじゃあ、この本自体が、それこそ「あたしたち」でつくった本なんですね。「落穂拾い」とおっしゃっていましたけれど、この本に描かれているのも、特別なたったひとりではなく、もしかしたら光が当てられなかったかもしれない「ふつう」の人たちの話ですよね。
三枝:私は山内さんの長編も好きなんですけど、たった1ページの短いものであっても、まさに自分が20代の頃や、30代のいまでも感じているような、「まわりからよく見られたい」という気持ちや、ふつうに働く女性が日々揺れ動いたり、悲しくなったり傷ついたり、心の底では感じながらもまだ言語化できてなかった感情が、短いメッセージのなかに強く描かれている。こういうものをいまの時代に出せたらなと思ったんです。
山内:雑誌って読者ありきですよね。どんな読者層かある程度つかめるので、読む人のことを考えて書けるのも、長編小説と違うところかも。私がお仕事させてもらっている雑誌の大半が、同世代をターゲットにしたものなんですね。私がデビューしたのが2012年なんですが、2010年代は、フェミニズムのバトンが自分たちの世代に回ってきたタイミングでもあって。私自身、20代まではフェミニズムにピンときてないというか、まったくわかってなかったんです。でも30代になって、上の世代の人たちが何を語っていたのか、やっと理解できるようになった。
だから私にとって2010年代というのは、まるまるフェミニズムや、女性であることについて考え続けていた時代。なので、自分が悩んでいること、怒っていること、気にしていることが、そのまま原稿に反映されているんです。たとえば、家事ムカつくとか(笑)。結婚して友達と距離ができたことへの戸惑いやさびしさ、年代が変わって何を着たらいいかわからなくなったという日常的な懊悩。いまはもうない、当時のリアルな心境が、原稿には残っていたんです。
女性差別って、文化に深く根ざしているので、まさかそれが差別だとは、なかなか気がつけないんです。
ー20代のときにはフェミニズムにあまりピンときていなかったけれども、30代になったら時間をまるまる費やすほどにまで変化したというのは、何が大きかったんですか?
山内:端的に言うと……上野千鶴子さんの本を読んだことかな。年齢的に結婚を意識するようになって、女性の立場の危うさには、うすうす気づいてきていたんですね。そんなとき、ちょうど『女ぎらい――ニッポンのミソジニー』が刊行されたので読んでみたら、もう(笑)。一発で目が醒めました。
ー明確なきっかけが。
山内:はい、日々なんとなく感じていた違和感が、やっと腑に落ちた。第三の目が開いたというか、覚醒した! ってくらい、世界を見る目が変わりましたね。女性差別って、文化に深く根ざしているので、まさかそれが差別だとは、なかなか気がつけないんです。とくに私は男女平等教育を受けている世代なので、女性が差別される性別だとも、まったく自覚してなかった。
10代、20代までは、極端に言ってしまうと、女の人の人生の、一番楽しいとされることの上澄みを、先に与えられているようなもの。そして、社会のなかで女性であることの本質的な課題みたいなものは、30代を過ぎてから一気にふりかかってくる。そういうふうにできてるんだってことに、やっと気づいたわけです。
ー「本質的な課題」というのは、たとえばどういったことですか?
山内:やっぱり根っこは結婚かなと思います。結婚は「女の幸せ」と言われてやんわり強制されているけど、実際は女性にとって負担がとても大きいんですね。結婚したとたん、せっかく築いた人生を自分でコントロールできなくなる人が多くなる。家事と育児に膨大な時間と労力を割かざるをえなくなってしまう。私は、建前上の男女平等にどっぷり浸かって育ったせいか、母の愚痴や女性の苦労話を、やがて自分の身に降りかかるものとしては、なかなか実感できませんでした。でもあれって、免除されていただけだったんだなぁと、30歳を過ぎてからやっとわかりました。
ーたとえば10代や20代の「若い女性」という見方においても、社会からある種の「役割」や「固定観念」を与えられていると思いますし、その見えないプレッシャーはジェンダーを問わないものだとも感じますが、30代を過ぎた女性にはまた違った役割が増えていくということでしょうか。
山内:女性になんらかの役割があるというより、求められる女性の役割が、10代、20代、30代でガラリと変わるってことですよね。日本の女の子ってニーズを掴むことに長けていると思うんです。そういうふうに育てられてしまっていると言うべきか。私の場合、10代、20代までは「女子の役割」なんて意識したことはなかったけど、30代の女性に求められる役割や、30代の女らしさ、みたいな固定観念とは、直面しました。以来ずっと、そこからくる外圧や内圧と地味に闘ってます。本当に厄介な課題が多くて……。
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