いま生きているこの場所や、自分自身は、この瞬間にふと存在しているわけではありません。遥か昔からあらゆる場所で、人や動物や植物が生まれては朽ち、何かがつくられては壊され、そうして無数に紡がれてきた営みの果てに存在します。そう考えると、「ここ」はどこへでもつながっているし、どこまでも広がっているように感じられます。この場所で生きながらも視野を広げるためにわたしたちができるのは、自分の「ここ」とは異なる文化を知り、眼差しを拡張することなのではないでしょうか。
今回は、以前She isに寄せたエッセイ「信仰をさまようわたしたち」で、イスラム教を信じる友人の兄妹のお話を発端に、さまざまな宗教から学びを得ることや、特定の信仰をもたない自分がどのように自分の信仰を自ら築くのか? ということについて綴っていた、コムアイさんにお話を伺いました。何を信じて生きるか、自信の話、南インドのとある地域で行われた儀礼を目撃した経験、歴史や伝承を学んでみて感じた思いなど、さまざまな方向に話題はおよびました。他の文化を知ることは、翻って自分自身や、自分のいどころの輪郭を、ありありと浮き彫りにしてくれるのかもしれません。
特定の宗教を信仰するわけじゃなくても、バイブル(キリスト教の経典)やクルアーン(イスラム教の経典)から学んでみることはできる。
─以前にコムアイさんが書かれた「信仰をさまようわたしたち」というエッセイが今回インタビューさせていただくきっかけの一つになっていて。今日は「宗教」や「信仰」について触れながら「ここで生きる」ときの眼差しを広げるためのヒントになるようなお話を伺えればと思っています。
コムアイ:いまのところ私は一つの宗教を全面的に信仰することはしていないのですが、日本で育った大多数の人と同じように神道や仏教の価値観から無意識に影響を受けている部分は大きいように思います。たとえば日本人は輪廻転生や前世について「もしかしたら存在しているかもしれないよね」というように、ゆるい認識でなんとなく信じている人が結構いるんじゃないかと思うんですけど、それは多分仏教から来ている考え方だと思うんです。
私も絶対に前世があると信じているわけじゃないけど、自分の身体に乗っているソフトウェアのようなものがあって、そのソフトウェアは私のいまの人生の前に別の人生を経験してきたし、また輪廻してほかの人の身体にのっかって、人生を繰り返していくだろうという感覚があって。
─特定の宗教を信仰しているわけじゃなくても、その文化になんとなく根付いている意識や感覚ってありますね。
コムアイ:インドのヒンドゥー教徒の人とは「前世ではこういう関係だったにちがいない」っていうジョークで笑ったことがあります。でも相手の背景になる宗教によっては伝わらなかったり新鮮に聴こえることもあります。そんな風に、会話の中でちがいに気がついたり。英語で、びっくりした時に「Jesus!」と言うのは自分では言い慣れないなあと思いながら、「Oh my god!」は気にせず言ってたりする。胸の前で十字架を切る仕草は馴染みがないけれど、会話やジェスチャーで「Fingers crossed!」と相手の幸運を祈ることはフランクにやる。そんな風に省みると、「いやあ、キリスト教は信じていない」とも言い切れないはずです。いろんな宗教の慣習が自分の中に入ってきて、とても柔軟に、それを矛盾しながら存在させているのかもしれない。
特に目に見えない世界、死後の世界については、古今東西で多様な設定づけがされていて、とても楽しいと思います。それが現世の生き方に関わってくるんですよね。特定の宗教を信仰するわけじゃなくても、バイブル(聖書、キリスト教の経典)やクルアーン(コーラン、イスラム教の経典)から学んでみることはできると思っています。個人的には、チベット仏教、琉球神道などの東洋思想のもの、あるいはカルト的な宗教家の書き残したものにしかまだ興味が湧いていないのですが。気になっていて全く手付かずなのがゾロアスター教。わからないものは怪しくて怖いから触れない方がいいという感覚を持っている人もいるかもしれませんが、知らないものから良い面を取り入れることができるかもしれないし、疑いを持ちながら一歩踏み込む好奇心を持つことって人生の醍醐味だと思うんです。
─コムアイさんがそうした考え方をするようになったのはなぜですか?
コムアイ:他の国の人たちと分かりあいたいというのは、無理やり結びつけてる気もしますけど、3歳くらいまでの間に、親と一緒にたくさん旅行をしていて、いろんな場所でいろんな人に触れていたことが「三つ子の魂百まで」的な感じで染み付いているのかなと思います。15歳くらいから、高田馬場のピースボートセンターに通っていたことも影響しているかもしれません。いろいろな国際問題があるなかで、ピースボートは「友達になった人がいる国に対して悪意を抱くことはないだろう」というシンプルな発想で、たくさんの人たちを船に乗せて世界中で国際交流を行っていて。
たとえ国と国との関係が悪くなったとしても、その国に自分の大事にしている人が住んでいたら、その実感のほうが、強い力を持つと思うんです。
生まれてからいままでの記憶とは別に、なんとなく「懐かしい」と感じるものを探している。
─コムアイさんはさまざまな国を訪れていると思うのですが、なかでも宗教行事にゆかりのあるお祭りに関心があって足を運ばれているそうですね。
コムアイ:すごく印象的だったのは、南インドのケララ州の北部に、全身にパチンコ屋さんに並ぶ花輪くらい大きな真っ赤な色をした装束をつけて神様を降ろす「テイヤム」というお祭りがあって、それを観たときのこと。儀式で捧げるための鶏が目の前で潰されるのを見たんですけど、ほかの生物の命の上に生きている責任や痛みを負うという覚悟を持った表現に見えて強烈でした。その地域で暮らす人たちが儀式を行うためにお金を出しあって実施していて、みんなじっと見守っていました。ヒンドゥー教の儀礼では一般的に豆や米などベジタリアンな供物が捧げられるし、ここまで火や土の存在感はない。このテイヤムはヒンドゥー教が根付く以前からの土着信仰の様子がうかがえます。
その場にいた外国人は私しかいなくて。私は、おかゆをいただいたりして優しくしてもらえたことが嬉しかったし、太鼓の音や雄叫びなど、忘れられない体験ですけど、素晴らしいものを見せてもらった代わりに、これが観光地化してはいけないのだという思いもあって。自分のやっていることがすごく矛盾しているとも感じます……。
─矛盾した思いを抱えながらもコムアイさんがそうした場に惹かれるのはなぜですか?
コムアイ:私は、自分の細胞の記憶みたいなものがいろんな島や大陸を渡っていまここに行き着いているような感覚があって。生まれてからいままでの記憶とは別に、なんとなく「懐かしい」と感じるものを探しているんですよね。ファミリーツリーだって何世代にも遡ったら無限に広がっているわけじゃないですか。だからいろんな場所へ旅行したり、学んだりしようとしているんだと思います。ロマンチックに言えば、里帰りなんです。
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