1990年代から写真家として活動し、「わたしの身体はわたしのもの」という主張を、表現を通じて発信し、多くの女性たちに勇気を与えてきた長島有里枝さん。昨年出版された著書『「僕ら」の「女の子写真」から わたしたちのガーリーフォトヘ』では、1990年代にHIROMIXさんや蜷川実花さんらと共に「女の子写真」と称された新しい写真潮流に対し、大学院で学んだフェミニズム理論を駆使した「異議申し立て」を行いました。アート棚だけではなく、社会学やフェミニズムの棚にも並び、多くの女性の手に届いた同著。「写真」を通して長島さんが行う問題提起は、私たちが毎日の暮らしの中で当たり前だと思って飲み込んでしまっている違和感に置き換えられ、気づきを与えてくれるように思います。
同著でも触れられ、長島さんが学生時代から24年間撮り続けている代表作品でもあるセルフポートレートの中から自身が選びぬいた写真集『Self-portraits』が、ニューヨークのDashwood Booksより出版されることになりました。「女性は所々で立ち止まって、自分の生活を見直さなくてはいけない場面にぶつかります」と、長島さん。一人の人間の“人生の変遷”をたどりながら、これまで経験してきた違和感について率直なお話を伺い、長島さんから溢れる希望に満ちたパワーをたくさんいただきました。
ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という一節を読んだときは、「これだ!」と思いました。(長島)
─『「僕ら」の「女の子写真」からわたしたちのガーリーフォトヘ』を拝読し、女性が経験する違和感に対して、淡々と、様々な角度から論理的に語られていたことに清々しい気持ちになりました。長島さんが矢面に立たれていた1990年代と比べて世の中における女性への態度は変化しているようで、根本的に変わっていないことも多々あると感じます。長島さんが、ここまでの熱量で書籍を書かれるきっかけとなった、フェミニズムと出会うきっかけからお伺いできますか?
長島:18歳の時、フランスの思想家シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』を読んだのが最初の出会いだったと思います。中学生ぐらいから、自分が「女」になっていくことに違和感を覚えていました。たとえば、胸が膨らんだり腰回りがふっくらしたり、身体的に「女らしく」変わっていく自分が嫌でした。
─小さな頃の長島さんは、どんなお子さんだったんですか?
長島:顔も態度もちっとも可愛くなくて、よく男の子と間違われていました。男の子の幼なじみが多くて、小学校に上がる前は「立ちション」の練習なんかをしたり(笑)。小学生のときもよく男子と遊んでいたけれど、10歳で引越しするまで、そういう行動を親や友人に咎められたことはありません。別に男子になりたかったわけじゃなくて、ただ立っておしっこするとか、思い切り走り回って遊ぶとか、そういうのを楽しそう、わたしもやりたい! と思っただけなんじゃないかと思います。性別のせいで何かを禁止されるという経験は、中学生になるまでなかったと思います。いま振り返ると、第二次性徴による身体的な変化への違和感は、それに伴って考え方や行動まで「女」になることを周囲の大人や男性から望まれたせいもあると思う。親友だと思っていた男子から告白されて、裏切られたような気持ちになったり。子供っぽいけれど本気で傷ついて、ひどい返事をして相手も傷つけちゃいましたね……。だから、ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」という一節を読んだときは、「これだ!」と思いました。
─いわゆる「女性らしさ」とは、男性社会を中心に作られた約束事にすぎないということを広めた、フェミニズムの歴史においても有名な言葉です。長島さんが著書で「わたしの身体はわたしのもの」と仰っているように、小さな頃から男性社会からの視線に違和感を覚えていらっしゃったのかもしれませんね。
長島:小学生の頃から、一人で子どもを育てている友達のお母さんをかっこいいと思ったり、父の、母に対するひどい態度を見て腑に落ちなさを感じたり、ジェンダーの問題と関わりがある周囲の人たちの動向に興味や関心があったように思います。
子を持ってからは「女」であることに加えて「母」として振る舞うことも強要されている気がして、女とか男とかではなく「わたしはわたし」なのに、とも思いました。(長島)
─長島さんが写真家として脚光を浴びた1990年代というのは、欧米ではマドンナのような女性の権利や性の多様性を訴えるポップスターが登場したり、ライオット・ガール・ムーブメントに代表される「第3波フェミニズム」が起きたりした時期でしたが、日本ではフェミニズムに対する意識はどうだったのでしょうか?
長島:いま、田嶋陽子先生の人気が高まっています。彼女はわたしにフェミニズムの存在を教えてくれた人のひとりなのですが、当時(1980年代)の田嶋先生は「ビートたけしのTVタックル」(テレビ朝日)に出演されていて、そこでパワフルに発言し、共演者の男性に煙たがられるフェミニストというイメージでした。田嶋先生のおっしゃることに自分はたいてい共感できるのに、おじさんたちがものすごく不条理な理論を引いて彼女を罵倒するんです。テレビとしては面白い図式でしょうけれど、中高生の頃にそれを見せられたわたしは「ああいう風に振舞う女性は罰を受けるのか」と怖くなりました。黙っていればうまくやれるのに、なんでわざわざあんなこと言うんだろうと思って、フェミニストのイメージはむしろ悪かったです。上野千鶴子さんが書かれているように、あの頃はフェミニズムにとってバックラッシュの時期でもあったと思います。
─1970年代から80年代にかけて女性運動やマイノリティの権利などフェミニズムのムーブメントがあり、それらに反対や誹謗中傷が集中したのが1990年代だと上野先生は仰っています。
長島:ここ数年は #MeTooや #KuTooなどの運動が起こったり、新しいフェミニズムの波がまた来ている感じがあって、世の中も変わってきているように思います。ただ、油断はできないと思う。なぜなら、わたしも若い頃は、(ウーマン)リブを担った人たちのおかげで86年の男女雇用機会均等法などもできたことだし、いまはもう男女平等の時代だと考えていたんです。自分さえ頑張れば、女であっても認めてもらえる世の中になったって。子どもを出産するまではね。
─出産を経て、また違和感を感じるように?
長島:そうね、違和感というよりもっとずっとあからさまなものでしたけれど。たとえば、妊娠5か月ぐらいのとき、当時の夫がアメリカに留学してしまったので、日本に残ったわたしが世帯主になったのですが、出産後の手続きや保育園の申し込みなどにいくと、用紙や必要書類などの書式がもう、父親じゃなく母親が主な働き手である可能性を想定してないな、と思うつくりなんです。0歳児の母親が世帯主であることとか、その夫が学生であること、さらには一緒に住んでいないことなどを逐一、説明させられたり、証明させられたりしました。わたしがフリーランスという立場なこともあり、認可保育園に措置される基準を完全に満たしているにもかかわらず、保育申請は3次審査まですべて落ちました。しかも、審査に落ちた母親の多くは仕事に戻ることそのものを諦めてしまうので「待機」という枠から除外され、結果的に「待機児童が減っている」ことを知ります。こういう仕組みなのか! と絶望的な気持ちになったけれど、その気持ちはすぐ怒りに変わりました。
「女性」だという理由で「しなくていい苦労」をたくさんしていると思うこともあります。でも、もしわたしがTVタックルのもう一人の女性——司会者のアシスタント——みたいに、男性社会に期待される女性をうまくやりおおせるタイプだったら、違ったかもしれない。端的に言って、家父長制的なジェンダー役割から逸脱した女性たちを、この国は受け入れたくないのだと思います。子を持ってからは「女」であることに加えて「母」として振る舞うことも強要されている気がして、女とか男とかではなく「わたしはわたし」なのに、とも思いました。それで、2011年に社会人枠で大学院に入り、フェミニズムを1から勉強することにしました。
─出産・子育てに関しては特に、昔からの規範が多いように思います。私も出産してすぐに働き始めたときに、周りからの冷たい視線を感じました。普段私が子育てにつきっきりなのに、大事な書類の宛先はすべて世帯主である主人宛。「なぜ?」という気持ちがたくさんありました。
長島:わかります。細かいことですけど、海外から3か月に1週間しか帰ってこない夫が、息子をおんぶしていると「いいパパね」って、通りすがりの人に褒められる。あとの2か月3週間、わたしは毎日そうしてきたのに一度も褒められたことがありません(笑)。
- 1
- 3