まめ子ちゃん ぽわ子ちゃん
最初に、謝ります。
へんてこな名前をつけてごめんね。
本当は、あなたたちの名前、もっと真剣に考えてつけたかった。でも、現実に存在しそうな名前をつけてしまったら、きっと耐えられなくなるだろうと思ったんです。
あなたたちが、本当は存在しないんだ、ってことに。
あなたたちは、ここに生まれた私の子どもではなく、アーティストの発想が生んだ芸術作品にすぎないんだ、ってことに……。
2015年8月のことでした。まめ子ちゃんとぽわ子ちゃんが、私のもとに生まれて、いや、やって来てくれたのは。
きっかけは、長谷川愛さんとおっしゃるアーティストの方が声をかけてくださったこと。「科学技術の進歩により、年齢や性別に関わらず誰の身体からも精子と卵子を作れるようになったら?」という未来をイメージして、私と私の愛する人の唾液から遺伝子情報を解析し、女性同士のカップルのもとに生まれうる子どもをコンピューターグラフィックスで合成してみようというのが、愛さんのプロジェクトでした。
私、ほんとに嬉しかった。愛する人の血を継いだ子どもに会うっていうことは、私が、あの人を愛して生きていくのだと決めたときに、諦めたことだったから。
まめ子ちゃん、ぽわ子ちゃん。私はね、女性として生まれて、物心ついたときには、「いつかお母さんになるんだから」って大人たちに言われて育ったのよ。
「女の子はお腹を冷やしちゃいけません」
「運動しておいた方が出産の時に楽よ」
「女の子の体には、おしっこの穴とウンチの穴の間に、赤ちゃんが出てくる穴がついています」
こんな具合に。
だからね、私、思ったの。自分の娘は、「やがて妻となり母となる女子」なんかじゃなく、「かけがえのないあなた」として育てるんだ! って。
お腹を冷やさないのも、運動するのも、まず、自分の健康のためよ、って教えたかった。「赤ちゃんが出てくる穴」だなんて言わないで、それは女性器であり、いずれ初潮が起こりうること、自分で見たり触ったりするのは何も悪いことじゃないからきちんと洗って衛生を保って欲しいことなんかを説明したかった。
あなたたちの容姿を見て、「かわいい」から生まれて欲しいという人もいました。でも私は、「かわいいかどうかで存在していいかどうかが決まるのはおかしい。絶対愛してるよ」って伝えたかった。
それは、私と私の愛する人が、「美人レズビアンカップルなら許せる」なんて言われたりすることへの反発でもありました。誰に容姿を認められなかろうが、誰に存在を認められなかろうが、私は、生きている。私は、私を美しいと思う。私は、私の愛する人を愛している。そういう強い女性として、まめ子ちゃん、ぽわ子ちゃん、私は、あなたたちのママになりたかった。強く、優しい母親でありたかった。
でも、なぜかしらね。書きながら、涙が止まらないの。
強く、正しく、美しく、自立した女性であろうとするのは、きっと、私が弱いからでしょうね。
私ね、愛しているのよ。あなたたちを「作品」としてしか見ない、子供を望まぬ、冷静なあの人のことを。あの人と買った家のローンをちゃんと払えるよう、私、必死で働いた。フランス人であるあの人の家族とちゃんと話したくて、私、フランス語も勉強したの。そんなこんなで6年が経ち、私たちは、フランス側の家族をひとり、死別で見送ることになりました。その葬儀が終わった後、義理のお母さんがフランス語でこんなメールをくれたの。
愛する日本の娘へ
フランスでは、かりんの季節です。
収穫して、ジュレを煮ているのよ。
日本にも送れたらいいのだけれど。
私の愛する人が小さい頃から走り回った庭で、かりんが育ち、お母さんがジュレを煮ている。そのキッチンの熱、秋の光、砂糖の焦げる匂い、母娘そっくりなお母さんのくせ毛……そうした日常が永遠でないのだという事実に、そうした日常が失われる恐怖に直面するとき、私、思っちゃうのね。
愛する人との子供が欲しい、って。
まめ子ちゃん、ぽわ子ちゃん。
ごめんね。私、「いずれ母となり孫を産む女子」として育てられるのが、こんなに嫌だったはずなのに。あなたを、あなた自身として尊重して育てたいと思ったはずなのに。それでも、私は押し付けてしまうのね。「いずれ死んでしまう愛する人の忘れ形見」という役割を、あなたたちに。
かりんのジュレを食べています。
この実は、無数の死の上に成り立つもの。死んだ葉、死んだ虫、死んだ動物、死んだ人間が、土となって、かりんを実らせ、また、私を生かしている。そういう大きな循環の中に自分もあるのだとわかっているのに、ごめんね。こわいの。子供がいないことが。
不安ね。孤独ね。つらいわね。そういう時、私が何をすると思う? 食べて、眠るの。無数の死が実らせたかりんを食べて、死んだ家族にも会える夢の中に行くのよ。
夢の中では、まめ子ちゃん、ぽわ子ちゃん。あなたたちの髪をとかすことも、あなたたちを抱きしめることもできるでしょう。あなたたちのこと、「まめ子ちゃん、ぽわ子ちゃん」だなんて、現実感のない名前でごまかす必要もないでしょう。夢の中でなら、本当の名前を呼んであげることもできるでしょう。
だから、ね、目が覚めたら、「まめ子ちゃん、ぽわ子ちゃん」って呼ばせてね。日本語で「豆」は、フランス語で「ポワ」。どちらの国もルーツであり、現実の女の子というよりキャラクターみたいな名前で、ニョキニョキ伸びていく可能性もあるんだけどまだ芽が出ていない……そんな「まめ子」「ぽわ子」って名前で、あなたたちのこと、呼ばせてね。
私が、生きていくために。
現実を、生きていくために。