科学が発達する前の時代に息づく、
自由で大胆な世界の捉え方が大好き。
「カメレオンは、空気を食べて生きている。」
「琥珀は、木の涙がかたまってできたもの。」
「ゾウは、お腹の中に10年間子どもを宿している。」
古代ローマ人が日々の疑問から考えだしたのは、たとえばこんなに不思議な答えたち。
観察眼と想像力を頼りに、目の前の点と点をどうにか繋げてみようとする気概。
果てしない創造力で、世界を解き明かしていこうとする貪欲な執念。
そんな姿が、昔の人々の考えから感じられるたび、いつも惚れ惚れしてしまう。
正解を追い求める彼らの軌跡をみていると、その愛くるしくのびやかな発想に、もはや正解だけなんてつまらないじゃないかと、思わず頬がゆるむ。
「なぜ、牛乳をあたためると、薄い膜ができるんだろう?」
「なぜ、パジャマにはポケットがついているんだろう?」
当たり前の風景も、いざその理由を考えてみれば、意外とわからないことばかり。それなのに、なんの専門家でもないわたしは「正解は、頭のいい誰かが見つけているはず」と、ささいな出来事に気を留めやしない。観察して、想像して、世界の成り立ちを考えてみたっていいはずなのに、はなから諦めてしまっているってわけだ。それって、ちょっともったいない。正解は、ひとつじゃない方が絶対楽しい。古の先輩方が教えてくれたみたいに。
そう思うようになってからは、自分なりに世界を解き明かす考察を楽しむようになった。
名付けて、「空想博物学」!
この前なんかは、不意にやってきた眠れない夜に、「あくび」について考えた。
「ふわぁっとあくびをすると、ジワッと涙が溢れてくる。」
慣れた体験ではあるけれど、あらためて考えてみるとちょこっと不思議。
普段、口を大きくあけたって涙なんか出てきやしないのに。
涙よ出るなと念じても、あくびが始まったら最後、もう止められない。
思いを巡り巡らせて、わたしが行き着いた答えは、あの涙の役割って「上まぶたと下まぶたをくっつける接着剤」なんじゃないかってこと。
眠りを誘うあくびにとって、あからさまに困るのは、目が開き続けることだろうから、そこをカバーしないはずがない。してなかったら、お間抜けにもほどがある。
接着剤と名乗るには、なんとも弱い接着力な気もするけれど、一度くっついたら離れないようじゃ、あまりにも理不尽だ。あくびが出るほど眠いからといって、そのまま寝てもいい状況にいるとは限らないのだから。
もしかしたら、「あくびを噛み殺す」なんて物騒な表現が生まれた頃には、「あくびが出たら最後、目があけられない!」くらいものすごい接着力が備わっていたのかも。それなら、ふわぁっとかわいいあくび相手に「噛み殺す」ような憎しみをいだく理由もうなづける。テスト前なんかは誰だってそうしたくなるでしょう?
いろんなひとに噛み殺されて反省し、今となっては涙もやさしい接着剤になったから、眠いときには味方につけてしまえば、こっちのもん。
あくびをして、じんわり涙が溢れてきたら、それを逃さないように、ギュッと目をとじてみて。気がついたら、そこはもう夢の世界……なんてね。
こんなことを考えていると、自分をとりまく出来事に愛着があふれて、なんだか生きるのが楽しくなってくる。その昔、人々が夢中になった世界の解き明かし方には、愛しい毎日をつくるコツが隠れているのかも。