エロを取り巻く状況は常に移り変わっているし、移り変わってしまうエロはいつだってクソエロい。100万回裸を見たことがある人の100万回触ったことのある身体に頬をよせるのと、1度も裸を見たことがない人の裸を頭のなかで想像するのと、どちらが興奮するかと言えば後者に決まっている。見えないものが見たい。そうゆうスタイル。いや、突然なに言ってるんだって感じだけど、エロとはそうゆうものである。
とはいえここ最近、安定したエロというものがこの世に存在しているんだということを人と一緒に住んで初めて理解したりもする。「一瞬のエロ」がエロいと思って生きてきたけれども、実は「永遠のエロ」のほうが奥深いんじゃないかと思い始めてからはなんだかアタシはすっかり大人になったみたいだ、と思ったりもする。
それでもエロは常に蠢いており、気が散ったり他のエロに気を取られたりしてしまう。でもなぜエロが揺れ動いているような気持ちになるかというと、「永遠のエロ」以外、基本的には触ることが許されない世界にアタシは生きているからだ。禁じられていることを破るのは子どもの頃からいつだって大好き。しかしそれでも頭のなかで、エロが揺れ動いたときに幾度も幾度も唱える。おそらく永遠のエロだってこの世に存在するだろうから、目の前にある身体をとりあえず愛し通してみようと。
エロは浅はかだと思う日もあれば、エロは奥深いと思う日もあるし、ただ気持ちいいと思う日もあれば、もっと気持ちよくなる/気持ちよくさせるにはどうしたらいいんだろうとまじめ腐って考えるせいで何時間も無駄にする日もあり、或いはエロいことなんて一切考えない日もある。それでもエロは睡眠や食事のように当たり前のようにそこに存在していて、アタシはエロから目をそらすことができない。エロい話ができる女友達がいればいいなあと思うけれど、エロは隠されてるからエロいんだとなんとなく思い込んでいるため、甘い記憶を自分のなかにこっそりと溜め込んでゆく。エロはアタシの身体のなかでひとりぼっち或いは愛しいだれかの記憶と積み重なって、そしてどんどんと大きくなる(これだけずっとエロが溢れる世界に生きているのだから、この先だれとも肉体関係を持たなくても、もしかしたら記憶だけでエロを召喚できるかもしれない、と時おり真剣に思ったりもする)。
例えばこの世で最もエロいこと、について考える日もある。朝ゆっくりできる日の寝起きの瞬間や、仕事中に眠くて眠くてしょうがなくなったとき、または幽霊が怖くてトイレに行けないときにエロについてグッと考える。すると30%くらいは邪念が消えるので、不思議だなあと思う。こうゆう時に思わず考えてしまう本当の真実の最高の夢のようなエロと言うのは、ふとした瞬間にその記憶を思わず反芻してしまう種類のエロだよなあ、と思う。居酒屋で友人を前にメニューを決めてる時なんかに、エロい記憶が降ってきたりした時には、ああアタシは本当にエロい人と人生をともにしてるんだ、と思ったりもする。こうした更新されまくるエロい数時間前の記憶をなんとか忘れないために、たわいのないメールを読み返して現実にエロを舞戻したりしながら。
自由とはなんだ、ということがよくわかんない、愛とはなんだ、ということがよくわかんない、みたいなノリでエロいこともよくわかんない。本当はエロはアタシだけのスペシャルなものとして取っておきたいくらい人生で大切なことなので、出来ればエロについてあんまり話したくもない。でも、エロい話をすることは重要な主題である気もする。なぜなら隠されているからだ。隠されていることについて、きちんと話せる人がこの世にいることは重要である。
大人になるにつれて守るものができてしまって、なかなかエロいことについて話したり書いたりすることが億劫になってしまうけれど(アタシにとってのエロは一人ではなく愛しい人がいて成立するタイプのエロなので、できれば愛しい人のプライベートなことを話したくないのよ、例えどんなにそれがミラクルにスペシャルに素晴らしいものだったとしても。ついでに誰のことも傷つけたくない、秘密はきもちいい、その他いろんな理由によって)それでもアタシは、臆病になりつつ愛を守りつつエロについて話すことを選ぶよ。ピース。