1991年 和歌山生まれ
実家はみかん農家
生まれてから27年間、和歌山で家族と暮らし生活を営んでいる
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小さい頃から女性の在り方に興味があって
18歳で写真を撮り始めたときに自然と被写体に選んでいた
女の子を撮っていくなかで
ヌードを撮影させてもらったり、会話をしたり
コミュニケーションを通して
自分以外の女の子と向き合う時間が増えていった
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2014年8月11日 柴犬の男の子を家族にむかえることになった
動物を飼うことは初めてではなかったけれど
23歳という当時の自分の年齢のせいか
犬に対して疑似子育てをしている気持ちになっていた
犬の存在感と生命体としての強さにあらがえるわけもなく
女の子だけでなく犬にもカメラを向けるようになり、
それからヌードの撮影以外でも家の中で写真を撮る頻度が増していった
犬と近所を散歩していると、行った道と同じ道を帰るけど、
植物への光の当たり方などの見え方が全く変わっている。
その変わっていく様には頼もしさを感じる。
(2015年11月5日の日記)
「私の愛犬への気持ちは度が過ぎているのかもしれない」
私が大真面目にそう言うと電話越しから恋人の笑い声が聞こえて
「うん。思ってた」って声が返ってきた
(2018年5月2日の日記)
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照れ臭さよりも撮りたいという気持ちに素直になって
今まで撮っていなかった家族の写真を撮れるようになっていったのは
犬のおかげだ
犬が「私」と「家族」と「写真」の点々を駆けまわって線で結んでくれた
恋人が必要だと感じたのは愛犬が3歳になった頃だった
世間に流されることはあっても、本当に自分自身が恋人をつくりたいと望んだことがなかった
大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、ずっと先の話だが愛犬との別れがきたときに私は多分死ぬと思った
前提として私の悲しみや心は私だけのものであるが、
いつかの別れにそなえて生命維持装置として恋人が必要だと感じた
それを妹に話すと「家族じゃあかんの?」と言われたが、
家族ではない血の繋がりもない他者と時間をかけて関係を築き、そのときにそばにいてほしいと思った
それから現在生まれて初めての恋愛というものをしている
愛犬への強い想いが私の生活を拡張させていく
(まあ今の恋人がそのとき隣にいる人かはわからんし
恋人おらんかもしれやんし
先のこと、とくに相手がいてとのことはわからん)
(2018年2月13日の日記)
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犬と過ごす生活のなかで、
家業の農作業を手伝うなかで、
私のために裸になってくれている女の子たちと時間を共に過ごすなかで、
自分が本当に撮っているものは何なんだろうと考えるようになった
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撮っていくなかで親しくなった女の子を、
和歌山の自然の中で撮らせてもらったときに
他の場所で撮るのとは違う魅力があることに気付いた
和歌山の自然の生と、女の子の性と生
人間の根源にあるエネルギーと自然の魅力が合わさる
和歌山の自然が作り出す光と影が女の子の瑞々しさを引き出し、
逆に女の子がいることで自然も新たな魅力を引き出される
私の頭が自覚するより写真が先に進み向かっているということがある
写真のそういうところが好きやし、信頼していられる
もし“写真”が隣にいたら、「自分ほんま流石やわ!」と肩を抱いて力一杯叩くだろう
愛美ちゃんと初めて写真を撮ったとき(2015年1月25日)に
私が風呂場で「やっぱりヌードっていいな」って言うたら
「わかる、やっぱりって言いたいよね」って力強く応えてくれたときも同じような頼もしさを感じた
……私、愛美ちゃんと何か形に残ることがしたい
(2018年5月14日の日記)
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撮る自分の自分らしさ、撮らせてくれる女の子の彼女らしさを
共に引き出してくれる
それが和歌山の自然である
ヌードと和歌山の自然、美しい自然光が一体となった時に
自分が良いなと感じる写真になる
そのことに気付いてから、ヌードも自然も等価に見えるようになった
私の住むこの土地と私の写真には過不足がない
ただ足りている
(2015年10月6日の日記)
「なにか面白いことない?」って妹が言うけど
生活のなかで面白いことを探したことも求めたこともなかった
生活なんかそれだけでめちゃくちゃ壮絶だ
(2016年1月18日の日記)
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ヌードを通して視るものは「性」から「生」になり
裸になった彼女たちを通して命を視るようになった
今、女の子も犬もみかんも植物も
みんな一枚皮をまとった命だと考えています
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写真が撮れることの歓びに涙を流しながら犬と歩いた
(2018年5月5日の日記)
私はやっぱり写真を撮ることが好きなんや、歓びを感じてしまう
(2018年5月14日の日記)
日記って衝動的にそのときの感情で書いてるので気持ちの変化がすごい
現在は犬との別れが来ても、生き続けられるような強靱な精神力を何十年の間に身につけていこうと考えているので、
2月13日の日記を読んでいて恋人についての箇所で、 おや? 私はなんて甘ったれた人間になっているんだ? って本当に恥ずかしかった
別れがどんなに辛かろうと、死なず、一人でも立っていられるような自力を蓄えていくこと
そっちの方が私らしい
(2018年5月28日の日記)