一緒に暮らそう
違う場所へ毎日出かけて同じ場所に帰ろう
ばらばらに食事し時々はともにし、コーヒーを淹れたら分け合って飲もう
ばらばらの時間に寝て寝る前には二言三言の言葉だけ交そう
友人の生活さんがしばらく家にいた時期があった。生活さんがうちに来たときに書いた、自分なりの宣言文のようなものが冒頭の文です。
生活さんは、それまでもたまに遊びに来て夜遅くなったときなどに一晩泊まったりしていたのですが、仕事の都合で短いあいだうちで暮らしたいということで、うちの一部屋を空けてそこに予備の布団をおいて寝泊まりしてもらうことになりました。
生活さんはうちにいるあいだ、朝早かったり、夜遅かったり、休日に仕事をしていたりとわりと不規則な生活だったので、宣言文の通りあまり家で会うことは多くありませんでした。生活さんはもっぱら、自分の部屋で小さなライトをつけて文庫本を読んだり、リビングで古い映画のDVDを観たり、ノートに日記を書いて過ごしていました。眠る前にたまたまリビングで会うことがあり、そんなときは「あっ」と言われ、「おやすみなさい」と言われたり、「パンって美味しいですよね」と突然言われたりしました。
滞在中のあるとき、びっくりするようなことがありました。わたしが仕事から夜遅く帰ると、倒れてしまいそうになるくらい甘い香りがキッチンとリビングに広がっていたのです。生活さんが、ブラウニーをオーブンで焼いてくれていました。甘い香り、チョコレートで身を固められるような、縛られるような香りが帰宅すると漂っていました。わたしはふだんあまり甘いものは口にしないのですが、これには参ってしまいました。頭がとろけそうに甘く暖かい空気というものが家に漂っていると、こんなにも幸せだということを、わたしはこれまで知りませんでした。作っている最中の香りというのは、食べるときのものとまた違う幸福感があるのです。
またあるとき、休日の昼下がりにキッチンに行くと生活さんがプリンを焼いていました。バニラの甘い香り。体中に幸せな甘い空気が入り込んで窒息しそうになりました。生活さんのプリンは卵を多く使ったかためのプリンでした。
そして今度は、早朝にキッチンに行くと少し大きめの物音がします。生活さんに「おはようございます」と声をかけると、はっと振り向いた生活さんが「あの、チーズケーキを焼こうと思って……それで……クッキーを今いじめていて……クッキーいじめをしていて……」とビニール袋の中に入れたクッキーを麺棒で叩いていました。チーズケーキの底に敷かれるものです。焼きあがるとチーズケーキにはラムがびちゃびちゃにかけられて、生活さんは職場で食べられるように包んでくれるのですが、その豊かな洋酒の香りはとても仕事中に食べられるようなものではなく、わたしはデスクで笑ってしまいました。
キッチンから漂う香りはいろいろあります。昆布だしの香り、ニンニクを炒める香り、カレーの香り、せいろを開けたときの湯気、などなど。夕方、住宅街を歩いたときに誰かの家のおかずの匂いを嗅ぐのがとても好きです。でも、わたしはこのとき初めてお菓子を焼く甘い匂いのことを知りました。そして、その中にわが身が浸っているというのはすごく良いことだと感じました。こんな生活もあるのだと。
短い滞在を終えて春が来て、生活さんがまた遠くに行くことになりました。そう、山開きの季節で、生活さんは街から山へ。生活さん、またお菓子を焼いてるかなあ。