Trip散文 – 旅と不感症と非日常のことなど/2.417c

飛行機の乗務員が描く、物理的、精神的トリップのこと

2018年7月 特集:旅に出る理由
テキスト・写真:2.417c 編集:野村由芽
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1.「Trip」とは

旅を意味する語として広く親しまれているTripを辞書で引くとまず最初に出てくるのは「蹴つまずく、小さなヘマを冒す、早足で軽やかに移動する」など動詞としての解説だ。
オックスフォードによるとこの語の由来は9~13世紀の古仏語Triperや13~16世紀の中期オランダ語Trippenなどの「ヒョイと飛ぶ、飛び越える」にあるという。

遥か彼方にスカイツリー、東京タワー、NTTタワーをのぞむ

実質的にも比喩的にも「A地点からB地点への移動」をTripと呼ぶことを鑑みれば、麻薬による酩酊にもまた同じ呼称があてられるのも納得がいく。

そこから派生して「突き抜けた幸せや快さをもたらす物事や人物」を指したりもする。恋愛の初期に熱にうなされたようにBaby, you are such a TRIPと囁いたり囁かれたりするあれだ。

極めて特殊な例だが、そのむかし某欧州系の航空会社で、ハイジャック犯に武器を突きつけられた状態で操縦室にドアを開ける要請の電話をする際には必ず単語「Trip」を混ぜて話すことで異変を知らせる不文律があったという。だいぶ以前にロンドンのバーでたまたま居合わせた今は亡き某社の陽気なクルー連中から聞いた話である。
社員たちのあまりの陽気さゆえ会社ごとTrip Outしてしまったのかもしれない。

今はたいていの機体にカメラがあり、操縦席付近で踊ったりキスしたりするとバッチリ撮られる

2.旅の意味するところ

記号としての「非日常」に含有されるある種のきらめきは「観光」という語に無邪気に呼応し、「旅」という語に深く共鳴する。
観光とは、それがなくても生存に支障は来たさない物事の筆頭かもしれない。しかし都市文化的な生活様式がネットなどを通じて人々に広く滲入した結果、もはや私たちは生存に必要なものだけで生存そのものを維持していくことに苦痛すらおぼえる、というややこしいことになっている。

たぶんカナダのトロント、或いはNY

円形を放射状の12室で区切った占星学図・ホロスコープにおいては、9室がつかさどる事象として「高度な学問や哲学的思考」と「長距離の移動、旅行、外国」が共存するのが子供の頃からとても不思議だった。その対極にある3室は「日常的なコミュニケーション全般」と「近距離の移動、観光」を意味する部屋とされる。

星の配置と人々の無意識の結晶である神話をもとに紀元前二千年紀のバビロニアから脈々と受け継がれてきた思考体系を、非科学的と一蹴するのはもったいない。

そこに織り込まれた物語のコードを読み解こうとする姿勢はまさに9室の眼差しが向かうところであり、その行為は精神世界の深淵をさぐる「旅」そのものと古代の人々は見抜いていたのだ。

パリ市庁舎前の出張メリーゴーランド

3.日常と非日常の

飛行機の中でわれわれ乗務員と乗客を隔てるいちばんの要因は「日常」vs.「非日常」の二項対立である。

路線や時期にもよるが、少なくとも6割の乗客にとって機内で過ごす移動時間はキラキラした非日常の一部なのだろう。
目にするもの遭遇することすべてに魔法が掛かっているのはとても幸せなことだ。

チボリ公園 コペンハーゲン

私が生まれて初めて見たオーロラは、中型機の深夜便で操縦室にコーヒーを持って行った時にガラスの遥か向こうで瑠璃色と緑色に揺らいでいた。乗務を始めてちょうど3週目の新人のときのことだ。用事が済んでもじっと佇んで前方を見つめる私に気づいた機長が「きみはひょっとして日本人かな、オーロラにそこまで感激してるところをみると」とパーサーに電話を掛け、着陸までずっと狭いコックピット内に留めおいてくれた。

季節によって表情を変える雪山や氷河、海洋そして大気の様相など、その美しさ凄まじさにあんなに感激したあれもこれも、今ではすっかり日常の景色の一部になってしまった。
なにごとも魔法が解けるのはいつも早い。新たな魔法を探してまた私たちは非日常の手がかりを求め、行く必要のないところへ行き、する必要のないことをするのだ。

グリーンランド上空

旅先あるいは非日常の真っ只中において、鏡だけを見続けるのではなく窓の外や街の中にきちんと眼を向けるのは意外と難しい。

発信することを前提として体験を経るのと、体験にみずからを滅却させるのとでは、人生を変えるほどの大きな差が発生するという。

もしかしたら「観光」と「旅」の分水領はそのあたりにあるのかもしれない。

ミュンヘンのTürkenstraße(トルコ街)近辺

ドイツ型のフェテッシュには湿潤さがあり日本人と親和性が高い

4.不感症と誤配

乗務員の職業病のひとつに「有名人にもテロにも不感症」がある。

着陸後の夜遊びでJRに乗ったら、フライトでついさっきまでご一緒していたスターが車内広告の写真でニッコリ笑っている。
退勤中の女性たちはそれを見上げてうっとりしている。
車内のやや離れたところからその様子を俯瞰図で眺めるのは一種の曼陀羅画のおもむきがある。

トルコの人々はチャイにミルクを入れない

初めてイスタンブールに行った時には日本語が堪能な現地ガイド氏と行動を共にした。
氷雨にけぶる黄色い建物を指差し「ああ、そういえばおとといあの手前で失敗テロがありましたね、妊婦だったらしいです」とこともなげに言う。
彼女は警官が寄って来たので目標より早く信管を抜いてしまったらしく、自分自身以外の犠牲者はゼロだったという。

実行に駆り出されたのが年若い妊婦だったというのにはさすがにショックを受けた。しかしそのショックも悲しみもあまり長くは続かなかった。
9.11の前からサボタージュは規模こそ違えど幾つもあったし、世の中には報道される事件と報道されない事件がある(らしい)。
交通網という経済の大動脈の循環を滞らせる報道はなるべくしたくないのが大兄の本音だろう。

中東ではザクロをよく食べる 抗酸化作用+旧約聖書の影響か

イスタンブールといえば、旧市街からヨットハーバー脇のホテルに戻る際に◯番のバスに乗るべきなのに、ロカンタ(大衆食堂)のお兄ちゃんに親切に手を引かれ*番のバスに乗ったところ、ずんずん夜の商店街から住宅街に走って行き、どう見ても方向違いで慌てて降りて途方にくれたことがあった。
外を歩いている人は誰一人おらず、いたとしても英語はおそらく通じない。
鞄をまさぐり昼間に市場で買ったヤマモモみたいな不思議な形の果物を齧った。
疲労と不安で涙が溢れた。

ぼやけた視界で真っ暗な路地奥の階段に腰を下ろし、しばらくして不思議な小さな灯りたちに自分が囲まれていることに気がついた。
追悼集会のロウソクかなと思った。目が慣れて来た。誰かがミャーと言った。猫たちだった。ゆうに30匹は超えていた。
一眼で議長とわかる利発そうな瘦せ型の茶猫が周りに一瞥をくれた。なかなかの規模の猫会議の邪魔をしてしまった。夜気が骨身に沁みる寒さだった。
もういろいろ麻痺していたので思わず日本語で「どうも、すみません、ちょっと、もう少し」と言ってしまった。

どれくらい座っていたのかわからない。あれほど時間の感覚が狂った経験は後にも先にもない。
犬もそうだが猫も行く先々の国で顔立ちがかなり異なる。野趣あふれる容貌の老猫が顎でしきりにある方角を示すのでよく目を凝らすとヨットハーバーの灯りだった。

イスタンブール現代美術館 ガラス越しにボスポラス海峡が見える

イスタンブール現代美術館地下のシネマテーク

個人的な話で恐縮だが、私が乗務員になったいきさつを振り返ると「運命の誤配」としか言いようがない。
誤配がここまでわたしを押し流して来た。押し流されて就いた職業はどんな些細な「誤配」も許容しない性質を持つのはどういうわけか。

移動した時間きっかり分の給料を貰い、日付や時間をひょいとTripしたり逆走したり、朝起きたベッドと夜寝る時のベッドが複数の国境や海洋、異なる言語圏や時間帯を超える事態が連続する、まことに奇妙な生活そして奇妙な人生だ。

HND着陸前

付記:旅情への音楽、読み返して参考にした本たち

Brian Eno『Ambient1 : Music for Airport』

環境(アンビエント)音楽のさきがけ。イーノ自身が体験した空港での音環境の酷さから、そこにいる人々の邪魔にならない程度に流れ、心的負担を軽減できる音楽を作成したとか。実際にNYのラガーディア空港で1980年代半ばに使用されていた

サーカス“アメリカン・フィーリング”

JALの79年のCM使用曲。坂本龍一の『レコード大賞』編曲賞受賞作。空の旅へのときめきを煽る煽る。歌詞は現在では注釈が必要かも

Wendy and Lisa“Honeymoon Express”

列車も駅もメタファーとしての旅へのキーワード。バイナリーな性分化の世界があたりまえだった時代でも、その被膜を破るかの如くしなやかに力強く内側から水を充たし続けた才能ゆたかなユニット。プリンスの侍女たちとしてだけでは終わらず、現在もTVや映画音楽など2人で活躍中

Boris Blenn『Berlin Future Lounge』

数年前どこか非英語圏の空港(ベルリンではない)の長い長いムービングウォークでかかっていた。音が上から降ってくる設定にして聴くとあのエフェクトを再現できる

筒井康隆『エロチック街道』『旅のラゴス』『パプリカ』(すべて新潮文庫)
旅のみならずメタな概念としての移動全般について、まず思い浮かべたのはこれらの三冊

東浩紀『弱いつながり』(幻冬舎文庫)
『ゲンロン0 観光客の哲学』(株式会社ゲンロン)
読み返すたびに発見のある二冊。ゲンロンは各巻の装幀も毎回素晴らしく、オブジェとしての書籍の美しさを再認識します

大竹伸朗『既にそこにあるもの』(ちくま文庫)
美術家の著者が80~99年にさまざまな媒体に書いた文章たち。95年の「イスタンブール・スクラップブック」は彼の地独特の混沌や大気に漂う湿った煙草の匂い、人々の鷹揚さと幽かな閉塞感をみごとに喚起する。
何かを創造したい衝動を抱えるすべての人に強く勧める一冊

加藤周一『幻想薔薇都市』(岩波書店)
プラハ、レニングラード、北京、NY、ボンベイやパリなど13の都市を舞台にした手紙や対話、メルヘンやミステリーなど多様な形態の小説集。図版も美しい

山田登世子『リゾート世紀末-水の記憶の旅』(筑摩書房)
19世紀末フランスのリゾートを舞台に、観光と旅行の定義がまだ流動的だった頃の世情を「水の仏文学」の水脈を辿りながら読み解く。
これを書いている2018年7月の時点で「水」は日本語の意識圏下では一番のキーワードかもしれない

PROFILE

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飛行機の乗務員 / 英語圏某港湾都市在住 / 湯船の中 / 映画館 / 素数

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