「役になるときには必ず、自分と役で会話をするようにしている」という女優の小川あんさんによる、この夏に撮影を行った映画『スウィート・ビター・キャンディ』の撮影現場で書き上げた刹那の記録。本作品の劇中スチール写真も担当している写真家の飯田エリカさんが「飯田エリカが撮る。千史、伊東笑、中尾有伽との小さな逃避行」で使用していたのと同じ「Lomo'Instant Square Glass」というインスタントカメラを手に、役・サナエとして生きる日々を書き留めてくれました。
“わたし”と(役の)“あの子”が話すトキ
わたしの刹那はひと続きだ。
あのとき感じたことは、今も感じてる。
いつのまにか忘れてしまったことだって、本当は心に留まっている。
ー……どうゆうこと?
わたしの大切な刹那は誰かと心の通う瞬間にある。互いに見えないはずのなにかが運命的にすれ違うとき、そして身体が熱を帯びてくるとき。愛を感じる。今、刹那を感じてるんだっていう実感がある。
ーじゃあ、それは一瞬の出来事だから捉えられないものだね。
ううん。すべては今という刹那の中にあるの。これからのことだって、今の地続きだから、その刹那は心の宇宙にかき集められて記憶されている。その宇宙は自分が想像していたより広かった。
星のように散りばめられた刹那をわたしはまだ冷静に綺麗だなぁと眺めることができないし、あふれていく刹那に追いつかない、流れ星のように一瞬よぎる刹那もあれば、ブラックホールに吸い込まれた刹那もある。
ただ、どうか、どこにも消えないで。
ある画面の中の刹那
そんなふうに思う瞬間に立ち会うとき、わたしは現場にいることが多い。
現場とは、映画作りの現場。映画の現場では、そのときのすべての刹那が画面におさまる。
今まで色んな役を演じてきて、彼らの影響で今のわたしが作られている。
そして、また、一つの役が身体を通り抜けると
これまでのわたしはもういない、
今のわたしになり、これからも、ずっと新しくなっていく
「わたしだ」。
小川あんという身体も、幼少期のあちこち走り回った記憶、中学のときの忘れがたい苦しみの記憶の刹那、その他にもたくさんの刹那が寄せ集まってできている。
私が生きていく中で刹那が存在しているように、
一つの役にも無数の刹那があるはずだ。
それは悲しみだったり、苦しさだったり、喜びだったり。
そういった刹那の記憶を積み重ねることで一つの役があらわになってくる。
そして秘めていた刹那も、画面の中で急に輝き出すことがある。
自分の想像を超えたやりとりが相手と交わされるとき。
憎しみや悲しみの記憶が外へ溢れ出し、涙に変わることがあるそのときに。
そう、愛が記憶を異化させ、その記憶は涙として分解される。
人は、わたしは、その刹那を心で握りしめ、必死で自分の中へ取り込もうとするんだ。
消えてしまいそうな刹那を手放さないために。
誰かへの、何かへの愛はその引力になる。刹那を、自分へと引き戻す。
愛そのものは多分、存在しない。
その刹那はその瞬間だけのもので、
刹那が刹那を呼ぶ。
そうした瞬間をたまたまカメラにおさめることができたのなら、それが映画なんだと思う。
最近わたしのそばに、金髪の小さい人が現れた。中村祐太郎というらしい。
じつはわたしは数年前に一度彼に会ったことがある。まだ彼が活動し始めて間もない頃、学生映画祭に行って、『雲の屑』という映画を観た。今まで見たことのないような卑劣さを描いていて、受け入れらない気さえした。ただ、黒い霧から光のような純度の高い何かが垣間見えた。上映後お話しする機会があって、それからわたしはこの人の作品をとても気にするようになる。
そうして数年後に再会し、この話をしたときに中村さんは
わたしのことを何一つおぼえていなかった。
ふふ、そういうところが好きでもあるんだけどね。
祐太郎さんも刹那を大切にしている一人。
そして今回彼が監督を務める映画『スウィート・ビター・キャンディ』に出演することになり、わたしたちはシンクロしている。
監督とこうゆう関係になるのは珍しい。
いつもは数歩先を歩く監督にわたしは足並みを合わせにいくのに必死で、たまにこっちの道もいいんじゃないでしょうか、なんて言ってみたり。
ただ、今回は二人、手を繋いで歩いている。
そしていつのまにか駆け足になり、今では銀河を冒険している。
二人が辿った後には星が瞬いている。
撮影は終わりへと近づき、刹那は続く。
この瞬間は絶対忘れない。
あの時、あの場所、あの人、あのこと。
再び君らに出会うことができなかったとしても、私の一部となって輝かせてくれるんだ。