ほんとうにさみしかったことなんて、もしかしたらずっと、ないのかもしれない。その人がわたしの前からいなくなったとき、とても悲しかったけれど、さみしくはなかった。年齢も本当の名前も知らなかった。ただその人はそこにいて、その夏だけ、わたしはその人の近くにいた。
夏に虹 あなたの好きな色の名がまだない世界であなたを呼べば
ネクターに溺れる羽虫 夏の手を舐めたらあまくてこわかったこと
いっしょにだめになったってよく夕焼けを注ぐ器のようなふたりは
誕生日だけを覚えている。もう、会えないね、となってしまって、わたしはそれが嫌でたくさん涙を流す。泣いたってその人は消える。でも、泣くっていうのは、しょうがなくたって、大切なことなのだ。言葉以外で、嫌だってことを伝える。それはそれで、だいじなことだった。それで、困ったその人は、ふいに、おれ、あした、誕生日なんだよね、と告げる。誕生日。そう、誕生日。生きているんだか死んでいるんだかわからないその人の、たったひとつの、この世との接点。わたしはとりあえずそこらにあった花屋に行って、花を買う。涙がなさけなく、明るいグリーンの床に落ちていった。深い黄色のきれいな花を買ってそのままその人に渡す。ちょっと笑って、その人は消える。わたしたちは、それきりだ。
朝になればお守りでしょう?レシートを見えないところできれいに折って
なさけなくからませる手足 会いたさは網戸で止まってサッシに落ちた
光に困らないで。自転車置き場の闇の中だれかのスマホの画面が揺れる
数年が経ち、わたしはそれなりに楽しくやっている。ときどき、その人が、夢に出てくることがある。夢の進行にはかかわらずにぼーっと立っていることもあるし、わたしの相棒役の時もあるし、セックスをすることもあるし、すれちがうだけのこともある。あなたに声はない。夢の中ではただ優しくて、笑っている。
あなたは口の中を見せてくれる。たぶんそれは花で、のどの奥から生えている。夢の中での確信として、それは刺さっているのではなく、生えていることがわかる。色とりどりの花が、あなたののどを支配して、だからあなたは話せないのだと、夢の中のわたしは考えている。
どうかしちゃう よ あなたにあなたの匂い在り今もそのまま揺れるTシャツ
存在しない花火のために泣くことがあるでしょう世界はこうも満ち引いて
手の温度がおんなじだったあの夏のふたりがあの夏のまま手を振る
思うに、わたしたちはあのときちゃんと、魂をすこしずつ交換していたのだ。人生を一瞬交錯させ、大切に思い、会えなくなった今でも、どうか元気でやっていてほしいと願っている。夢を見た翌朝、いつか会えるかもしれない、となんとなく思う。でも別に、会えなくたってよくて、そういう希望を持っていることが、明るくわたしたちを照らしている。そんなことを思っているのはわたしだけかもしれない。あなたはわたしのことをすっかり忘れて、顔も覚えていないかもしれない。だけど、あなたには花が生えているのだ。見えないところに、あの日からずっと。わたしは確信している。好きでいる。大事でいる。毎年、あなたは夏にひとつ、年をとる。わたしたちはもう会えないかもしれないけれど、たしかに、あの夏から地続きで、今ここにいる。
あなたはあなたの祈りのために夕立が来て止むまでの刹那をおもう
ねむっているけれどたしかにだきしめるちからの光 おやすみなさい
だから世界を愛しているよ 花器として余談の日々をうつくしくゆく