宿題をしていても、働いていても、好きな古着屋で洋服を見ていても、スーパーで品物に値引きシールが貼られるのを待っていても、襲ってくる身体からの警報。それは心の準備をしていなかったのに、予告編なしでいきなり本編の映画が始まるようなものである。
身体と心は常に影響し合っている。年月を重ねていくと、顔が似てきた熟年夫婦のように自分の身体と心が親しみ慣れていく感じもするが、病気が起こった時はそうはいかない。いつだって隕石が地球にぶつかった時ほどのびっくりするくらい大きな衝突が、身体の中で、ありとあらゆる形で繰り広げられている。
私は時と場合により、体調を崩す。元々、生まれつきのアレルギー体質ということもあり、食べ物のアレルギーが複数ある。たまご、えび、そば、ばなな、などなど。これらを口に入れてしまうと、たちまち身体から赤信号が出て、体内が熱くなり、そして皮膚が痒くなって、呼吸がしにくくなる。ひどくなると死に至ってしまう場合もある。
なので、普段から食事や身体のコンディションには気をつけているが、病気はそんなことお構いなしでやってくるから、アレルギーや他の病気が理由で、しょっちゅう体調のバランスを崩している(春と秋はアレルギー性の鼻炎が重度です。日本に杉を植え付けた人を毎日恨んでます)。
しかし、病気をすると、する前と比べて、私は何か新しいものが一つ、自分の心の奥深くに生まれていることに気がついた。それは、「自分の身体を過大評価しない力」だ。体調を崩すたびに、自分の身体を客観的に見る視点ができる。
例えば、「あれ、これはあの時に似てる痛みだ」とか、「この不調には波がある。いつもそうだったように」という思考に至る。いつの間にか、身体はしっかり過去の病気から学習してくれて、その経験を生かした心の持ち方を脳に伝授してくれる。そんな機能を取り付けてと、頼んだ覚えはないのに身体はやってくれる。人間ってすごいと感心させられる場面である。痛みや苦しさに同じものは二度とないが、類似しているものは何かしらあると思う。何事も経験すると、心の許容範囲が広くなっていくことはあるが、体調を崩した時にも同じ効果があるのだ。
それに、病気や怪我を経験しても、いつも笑いに変えられることが、私にはできる。私は元々、関西出身で関西特有の「どんな苦労話も話のネタにできたらいい」という雑な明るい気質が根本にあって、「病気でも死ななかったらいい、最後には面白かったら、もうなんでもいい」と20代前半に考えるようになり、病気はもちろん人生に降りかかってくる問題についてもその考え方で悟りを開けた。未だに覚えているのが、昔、私が火傷した際、その部分を父親に見せると「これで焼き豚になれたね」と言われたことだ。この例えはちょっとひどいが、このように病気や怪我も場合によっては最高の話のアテにもなりえるのだ。結局、生きてたら丸もうけ。
私達の「健康」の定義はどこからやってくるのだろうか。身体の感じ方は一人一人違うから、数字で測ることはできないと思う。それは、「不健康」の定義だって同じことだろう。「自分の人生史上の『マイ・ベスト・ヘルシー日』をすぐに思い出せるか」と聞かれたら、皆、返答できるだろうか。人生において、身体との付き合いはそういう曖昧なものなのだ。
大丈夫。みんな、病気をして大きくなる。だから、身体と人生のしんどさに目をそらさないで、笑って、泣いて、そしたらまた笑って向かっていきましょう。それは、私と同じ、今日も明日も何かしらで体調が芳しくないかもしれない世界の男と女、大人と子供、若者と年長者、生きとし生ける者へのエールであるのだ。