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運命の人、そして人の運命についての所感/七

ハッピーエンドはひとつじゃない

2019年1月 特集:ハロー、運命
テキスト:七 編集:竹中万季
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運命の人について

「たとえば」の中身は、ほんとうになんでもいい。偶然そのドアを開けて、まるで待ち合わせていたかのように「やあ、ここにいたの」という顔でやってきて隣に腰掛けたそのひとがやがて“運命の人”と呼ばれるとき、それはなるべくしてそうなる。つまり、偶然を超えて、お互いに隣の席にすわりつづけることを選び/選ばれているということが、進行形の運命なのだとわたしは思う。

おとなの戦略的な人間関係のはなしではなく、もっとロマンチックな意味で、気になる相手の腕をちょっと引いてみることがありますよね。恋愛における場面がわかりやすいけれど、それにかぎらず、「このひとと仲良くなってみたいな」と思ったときに偶然をよそおったタイミングで声をかけたりとか、わたしもたまにしちゃいます。
でも皮肉なことに、考えに考えて実行した作戦よりも、取るに足らないようなひとつのアクションが人生のある時点を劇的に変える結果を巻き起こしたりもする。何かを「する」のもそうだし、「しない」のもそう。契約予定で頓挫になったという物件を不動産屋さんに紹介されて借りて一年後、お隣さんと結婚した知人。なんとなく行かなかったいつもの集まりで急接近していた、友だち同士の距離。薄くて軽いドミノがものすごいスピードでゴールの壁を倒す。

きっかけひとつひとつはやっぱり偶然でも、そこから派生した未来を選べば、はてに運命になっていく。あらかじめ決められた恋人たちではなくても、魂の片割れ同士になっていく。偶然のことを英語でby chanceというように、偶然をチャンスにしたら、そのときは離さずに行きましょう。運命の人かどうかは、そのあとふたりで決めたらいい。

人の運命について

あの出来事がなかったら今わたしはここにはいないんだろうなあというようなことを思うたび、いつかまたある出来事によってここからべつの場所へと運ばれていくのだろうとも思う。風が吹けば桶屋が儲かるみたいなことをいいますが、数年前のあの日の夜にテレビを観ないで眠っていたら、わたしはいま暮らしている街には住んでいなかった(と思う)。行かなかった場所、出会わなかった人、過ごさなかった時間。どんなふうに生きていても最終的にたどりついてしまう場所や人や時間は、運命というより因縁に似ている。

人生の前半でおとずれる選択って、中高や大学の受験だったりするのかな。わからないけれど、わたしは大学の講義からはほとんどなんにも学ばなかったかわりに、いまの満ち足りた生活もあの大学のあの学部に行かなければなかった。いちおう第一志望に書いていた少しだけ偏差値の高い学部は補欠合格で、そのまま受かっていたらきっと、やっぱりここにはいないと思う。世間体を物差しにすればそっちに進んでいたほうが「いい」人生を選べていたのかもしれないけれど、振り返ればこの現在が最高だ。

「ぜったいにこうじゃなきゃいけない」っていうこだわりがわたしにはあまりなくて、流れに身をまかせてその都度いちばん良い方向に舵をとることを指針にしてきた。いつでも自分の選択と、向こうからやってきた結果を愛したい。それを抱きとめて運命と呼びたい。だからおまじないみたいに繰り返す。ハッピーエンドはひとつじゃない。サイコロの目で進んだコマが地図のとおりじゃなくても、驚くべきことや楽しいことはそれなりに待っている。どこかで分かれた川の支流もやがて海に繋がるように、選んだほうと選ばなかったほうをあわせて現在なのだと、わたしはずっと信じている。

PROFILE

七

そろそろ若さを盾にできないし、したくもない年齢。みんなが部活で揉めたりファミレスのドリンクバーで何時間も粘ったり彼氏とプリクラ撮ったりしてるあいだインターネットにポエムを投稿していたので青春の偏差値が37くらいしかない。好きなものはお笑いとビールと炙りしめさば。

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