母の人生は私の人生だったのだろうか/楠田ひかり

誰に言われずとも、母は母自身の人生を生きていた

2019年5・6月 特集:ぞくぞく家族
テキスト:楠田ひかり 編集:野村由芽
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「なあんにも苦労してない綺麗な手」

一人暮らしの私の部屋に訪れた母は、私が風呂にはいっているあいだに洗い物をすべて片づけてそう言った。

母の人生は私のための人生だった、なんて考えるのはおこがましいけれどそう思う。私が8歳だったある夜、父の暴力に耐えかねていますぐ私を連れて逃げようとする母に私は、この家から出ていくのが嫌だから、出ていかんといてと泣いて頼んだ。母は泣き崩れ、結局その夜は出ていかなかった。それから私が成人するまで出ていかなかった。私は18歳の春、大学進学で母よりも先に家を出ていった。あけるとシャラシャラ音がする、ぼやけた厚いガラスの扉の家だった。

責任感が強く、仕事も家事も育児もすべて一人でやることを当たり前だと思っていた母。想像を絶する母のつよさによってもたらされたものを当然のように享受してきたことに、私は一人暮らしをしてはじめて気がついた。

「お母さんピアスあけたかったんやけどな、ほら、あけたら人生変わるって言うやん。でももういいねん。お父さんと離婚できて人生変える必要もなくなったから」
東京駅、大丸の千疋屋に向かう途中、念入りに磨かれたガラスのショーケースに入ったピアスを横目に母は言った。母の姓は結婚と離婚で二度変わった。ただし離婚では、見かけ上は変わっていない。母は旧姓に戻さず婚姻時の姓を使い続けている。それでも法律上は同じでないものとみなされるようになった。たとえ私が母と暮らしていたとしても、私と母は同じ戸籍に入れない。

母が出ていったあのガラスの扉の家には、とても一人では帰れない。18年間慣れ親しんだ家が、また帰れるだろうと思って出ていった家が、自分のものではなくなってしまった。

この先もきっとずっと自分のものだろうと信じて疑わなかったものが、突然なくなってしまうことは誰にだって起こりうる。血縁は必然的なつながりだけれど、それだけでは家族がつながる根拠にはならない。家族は、ある一つの状態にすぎない。そうであるからこそ、共に生きることをまっとうしなければならない。

母の人生はやっぱり、私の人生だったのだろうか。もしそうだとしたら、私はなにを返せるだろう。そう考えて、私は私の家族をつくることが母への恩返しだと思った。けれど、男性のパートナーと付き合ってはじめて、私は自分自身の身体を女性として扱うことへの違和感に気づいた。この先結婚したいかも、子供がほしいかも、なにもかもわからないし決められなかった。

誰に求められたわけでもないのに、「普通の家族」をつくることができないかもしれない自分に負い目を感じた。母に話してみようと決めたものの迷いながらどっちつかずの言葉を発した私に、母は唐突に言った。
「あんたみたいに体力も気力もない子が子供なんて今は考えんでいいよ。私、早めに仕事辞めて養子育てたいと思ってるねん、あんたも帰ってきて一緒に育てるのもありやで?」
拍子抜けした。誰に言われずとも、母は母自身の人生を生きていた。彼女のやり方で。

家族とは共に生きることをまっとうする存在。そこには、それぞれが、「私」自身が生きることをまっとうするという前提があった。

これから先、私の人生は母の人生だったと言えるほどになにかを返すことはできないだろうし、おそらく、そうする必要もない。私は、現在母である無数の人びとが、あるいはもしかしたらこの先母になるかもしれない私自身が、「私」のために生きられる世界をつくるために、私のやり方で、私の人生を生きていくよりほかにない。

PROFILE

楠田ひかり
楠田ひかり

1995年神戸市生まれ。一橋大学言語社会研究科修士課程在学中。雑誌『文鯨』編集部。
ヴァージニア・ウルフの1930年代以降の作品における共同体観について研究しています。現在の関心は文学における家、女性、再生産労働の表象について。ウルフを現在に通じるものとして読むことを起点に、これからの家族や、共に生きることの在り方について考えています。また、読むこと、そこから私自身が書くこと・生きることを地続きのものとして考えるために、日記をもとにしたテクストを制作しつづけています。

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