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装いの主導権を、手元にしっかりと握りしめて/エミリー

ラグジュアリーブランドのバイヤーになって思うこと

2019年9・10月 特集:よそおうわたし
テキスト・撮影:エミリー 編集:竹中万季
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これまでの人生や日々を振り返ってみた時、装いは、いつも心と体の一番近いところで、私の心や環境の変化とともに日々寄り添い変わり続ける、自分の一部でありパートナーみたいな存在だ。だから「装い」について考えることは、私にとって、もはや自分の人生について考えることとほとんど等しいのではないか、と思っている。

記憶をたどってみると、物心ついて一番はじめに装いのことを自分で意識しはじめたのは、おそらく小学5年生の夏だった。母と一緒に東京の祖父母の家に遊びに行った時、近所の小さな本屋さんで初めて買ってもらったファッション雑誌『ピチレモン』の、夢ときらめきがぎゅっと詰まったような世界に、私は一瞬で魅了された。それまで、母が選ぶ服を毎日適当に身につけて学校に通っていた私は、その日を境に、雑誌の中のモデルさんたちが纏っているキラキラとしてかわいい洋服たちのような「自分が着たい服」を自分で選んで着るようになった。当時の私はキラキラとしたかわいいものが大好きで、ガーリーな色使いやモチーフが印象的な「メゾピアノ」の洋服を好んで身につけていた。

友達や職場の上司から、よく言えば「芯が一本通っている」、悪く言えば「頑固」と言われることも多い私は、子供の頃から自分の考えや好きなものに忠実な女の子だった。昔からずっと、私が着るものの基準は、すべて「私が着たいから」「私が好きだから」という純粋な動機でしかありえなかった。周りからどう思われるか、ましてや異性からどう思われるかということなんて、おそらくほとんど考えたことはなかったのではないかと思う。

大学生の頃は、私の装いが一番何にも縛られていなかった時だ。特に大学2、3年生にかけて、1年間イギリス・ブライトンの大学に留学した時に受講していた、服飾学部でのファッションヒストリーの授業の影響で、私はツイッギーのような60年代風のレトロな色や柄の服装が大好きだったし、当時観た映画『(500)日のサマー』のヒロイン・サマーをイメージしたコーディネートを着てみたりもしていた。愛読雑誌は『FUDGE』や『装苑』や『GINZA』。とりわけ世界のスナップ特集のロンドンやパリの女の子たちの自由で個性溢れるファッションが、私のお手本だった。虹が作れるほどカラフルなカラータイツを何足も持っていて、マスタードでもショッキングピンクでもミントグリーンでも、今思い返せば恥ずかしくて赤面してしまいそうな組み合わせも多々あったに違いないけれど、当時はいつだってうきうきしながら、自分の心が赴くままに自由な装いを楽しんでいた。

装いに対する私の意識が大きく変わったのは、社会人になって働きはじめてからのことだ。洋服そのものも、装うことも、ファッションの魅力やきらめきを教えてくれるファッション雑誌も含め、装いをとりまくあらゆるものが大好きだった私は、自分の好きなものに携わる仕事がしたいと、国内のアパレルメーカーに就職した。

社会人1年目の店舗研修で販売の仕事をやっていた時、大学生の頃と変わらない自由でカラフルな装いで通勤していたら、先輩に「その組み合わせはありえないでしょ」と笑われたことがあった。先輩にとっては何気ない一言だったに違いないけれど、私にとっては思いの外大きなショックで、その頃から、自分の感性のままに洋服を着るのはおかしいのかな、と少しずつ周りの目を気にするようになっていった。

2年目以降、本社の営業として働くようになってからは、取引先の何歳も年上の男性や女性たちから舐められてはいけない、仕事の相手として信頼してもらわなければいけない、という社会的なプレッシャーを嫌でも感じるようになった。そういう社会的な立場やまなざしに直面した時、私はいつのまにか、カラフルな色からベーシックカラーへ、ポップな柄から無地へ、スカートやワンピースからパンツスタイルへ、と、よりシックで落ち着いた、大人っぽい服装を選ぶようになっていた。

そして約2年半前、縁あって転職し、それまで雑誌の中でしか見たことのなかったラグジュアリーブランドの世界に足を踏み入れ、バイヤーチームの一員として働くようになった。華やかでロマンチックで夢のように美しく強く繊細な洋服たちが、私の日常になった。
それはとても刺激的で楽しい一方で、あまり知りたくはなかったファッションの「ビジネス」としての側面を目の当たりにすることも多くある。私は自分の働くブランドの世界観を体現し、商品を司るものの一員として、「自分が着たいもの」ではなく、「ブランドを体現するもの」を日々身につけるものとして選ばなければならなくなった。純粋に好きであるはずのものに携わっていながら、ファッションを必ずしも自由に楽しむことが許されなくなってしまったことに、強い違和感や矛盾を感じることもしばしばある。

「着たいもの」と「着るべきもの」の狭間でがんじがらめになる苦しさを味わいながらも、一方で、それまで「これは私らしくない」「私には似合わない」と思い込んで手にも取らなかったものたちを、自分の働くブランドの世界観を纏うために手に取ってみた結果、新たな自分に気づかせてもらえたこともたくさんある。

ウォッシュのかかったカジュアルなブルーデニム、ヴィクトリア調の白いレースのフリルブラウス、サテンラペルが艶やかなタキシードジャケット、潔いミニ丈のベルベットのドレス、シルエットも質感も美しいベルベットやパテントのハイヒールのサンダル、ダークグリーンのしなやかなラムスキンのライダースジャケット。
どれも、それまでの私ならきっと一生手に取ることも袖を通すこともなかったであろうものたちばかりだったけれど、仕事でパリに買い付けに行き、本国の担当者や世界中のバイヤーたちと対等にコミュニケーションを取ったり、毎シーズンのコレクションや買付内容について、全国の何十人ものスタッフの前でトレーニングをしたりしなければならない時、その服たちは纏う私に美しさと説得力、そして大きな自信を与え、外見的にも内面的にも支えてくれる。自分に似合うもの、自分の装いの幅が広がり変わっていくことは、自分も知らなかった新たな自分に出会わせてもらっているようで、とてもうれしい。

真っ赤なリップを唇にのせて、ターミネーターみたいに戦闘力の高そうなメタリックのネイルを塗って、60年代の雑誌から飛び出してきたみたいなプレイフルなドット柄のミニドレスにシアーなブラックのタイツ、艶やかなパテントのハイヒールサンダルを合わせて。
手が震えてしまうほどの緊張感とプレッシャーを感じる仕事の場に行く時、私は思いっきりファッションで武装する。モテとか男ウケとか好感度なんてものからは遠く離れて、私は自分が最高に美しくて強くなれるもの、纏うだけで背筋がすっと伸びるものを纏う。

反対に、平日の戦闘モードで身も心も疲れ果てた休日の私には、等身大の自分に心地よく馴染むようなゆったりしたシルエットのコットン素材のロング丈のワンピースが、優しく寄り添ってくれる。楽しみにしていた女友達との約束や美術館や舞台を観に行く時は、そのうれしい気持ちをさらに高めてくれるような、その時一番のお気に入りの洋服や靴やバッグで、とびきりのお洒落をして出かける。

そんな風に、私は楽しかったり辛かったり苦しかったりする日々を生き抜くために、その時々の私に一番ふさわしい装いを自分の手で選び纏って生きている。

25歳を過ぎて「フェミニズム」や女性をとりまく問題について自覚的に考えるようになってから、私の装いに対する考えはさらに変化し、より一層強固になりつつある。

最近になって、いろんな女の子が子供の頃に「ピンクは女の子らしい女の子が身につける色だから」「ピンクが好きだと言うと馬鹿にされるから」と、さまざまな理由から本当はピンクが好きなのに水色を選んでいた、というエピソードを耳にすることが多く、私は大きなショックを受けた。子供時代、私は幸運にも周りからのまなざしや言葉に囚われることなく自分の好きなものを純粋に貫くことができていたけれど、それはある意味、自分は随分長い間、いろいろなことに鈍感だったのかもしれない、と思うようになった。

女の子らしい/らしくない、モテる/モテない、色気がない/セクシーすぎる、かわいい/かわいくない、派手/地味、年相応じゃない……世の中は、とりわけ女性の外見や装いに対して向けられる勝手なイメージや理想の押し付けに満ち溢れていて、女性たちは生まれてから死ぬまでずっと、意識的・無意識的に、社会の中のそんな言葉やイメージに囚われ続けている。

でも、そのことに無自覚で自分の「好き」にまっすぐだった子供時代を経て、それらすべてに自覚的になった今、やっぱり私は改めて、そんなの知ったことじゃない! と強く思う。

装いは、誰かにまなざされるためのものや誰かに評価されるものである以前に、いつだってまず第一に、自分自身のための、自分の心に寄り添い、自分の心を豊かにするものであるはずだから。
ネイルもリップも瞼に乗せたキラキラも、しなやかなあるいは艶っぽい脚がのぞくミニスカートや胸元が空いたトップスも、すべては他人や異性のまなざしのためのものではなくて、自分に自信を与えてくれる、自分の心をほんのちょっと強くしてくれる、お守りみたいなものだ。
社会の中で生きていくには、ある程度のTPOや礼節やルールは避けられないこともある。それでもできるだけ、他人の判断や意見に揺さぶられ主導権を委ねるのではなく、自分の心に正直に、自分のために装いを決める主導権を、自らの手元にしっかりと握りしめていたい。そして、老若男女みんなが自分らしい装いを自由に楽しむことができるように、社会のまなざしがもっともっと自由で寛容になっていってほしい、と強く願う。

今年に入って、その存在を知るや否や、たちまち私はハロー!プロジェクトのアンジュルムというアイドルグループの大ファンになった。パフォーマンス力の高さ、楽曲のかっこよさ、メンバー一人一人の個性豊かさ……彼女たちの魅力は数え切れないほどあるけれど、一番に心を打たれたのは、私がこれまで抱いてきた日本の「アイドル」像が覆されるほど、異性への媚びや守ってあげたくなるようなか弱さを微塵も感じさせない、心の底から歌うことや踊ることを楽しんでいる力強さや清々しさと、衣装もヘアメイクもパフォーマンスも、すべてに一人一人のまったく違う個性や魅力が最大限に生かされていること、だった。
「十人十色 好きなら問題ない!」と歌うメッセージ性の強い歌詞の内容も、彼女たちが本当に本心から思って歌っていることなのだと、安心して信じることができる。アンジュルムは女の子に順位をつけたりすることなく、女の子にはみんなそれぞれに違った個性やかわいさや魅力があるし、それを生かすために自分の好きなように装ったり振舞ったりしていいのだという当たり前のことを、改めて実感させてくれる。そんな彼女たちの存在は、私にとってとても大きな救いであり希望だ。

今年の6月に惜しまれながら卒業したリーダーの和田彩花さんが、当時最年少メンバーだった笠原桃奈さんが赤いリップをつけていたことをファンから「濃すぎる」「似合っていない」と言われて年相応のメイクにした方がいいのかと悩んでいた時、「これからも好きな色のリップを塗りなさい」と言葉を掛けたというエピソードに、私はとても勇気づけられた。

装いは、自分に自信や力を与えてくれる武器やお守りであると同時に、時に外側からの強制や言葉によって自分を失い苦しめられることもあれば、反対に自分の新たな一面に気づかせてくれることもある。これから先、私の心や人生の変化とともに、私の装いはどんなふうに変わっていくのだろう。きっと「好き」を貫くことができなくなる瞬間もあるに違いないけれど、自分がいつかお母さんになってもおばあちゃんになっても、自分のために装うことの楽しさやうれしさを、ずっと忘れずにいたい。

PROFILE

エミリー
エミリー

大学時代に文学と言葉に魅せられてから、ずっと、読むこと・考えること・言葉にすることを大切にしてきました。今ではそれが、私にとってとても大きな心の拠り所になっています。本を読むこと、考えること、言葉にすること、そのことについて誰かと語ること、それらがもたらしてくれる何にも代え難い面白さや豊かさや可能性の広がりを、もっともっと多くの人と共有出来たらいいな、と思っています。

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