私は、物心ついた頃から、おしゃれが大好きな母にいろんな服を着せ替え人形のように着せられて育ってきました。
母は、ご飯よりも旅行よりも、とにかく服が一番好きで、服に一番お金をかける人でした。
保育園に通っていた頃、子供には珍しい栗色でセンターパートのロングヘアーが自慢だった私は、毎日違うヘアセットをしてもらい、毎日ちゃんと考えられたコーディネートで通園していました。
それはもう、本当に様々なジャンルのキッズブランドの服を着せてもらっていたのを思い出します。
個性派な「ムチャチャ」
ちょっとギャルっぽい「RONI」
ヒッコリー系でほっこりしている「HAKKA」
やんちゃな雰囲気の「ヒステリックミニ」 etc……
私のお気に入りのブランドはムチャチャだったけど、お気に入りばかりを着るのではなく、とにかく色んなジャンルの服を着て、自分の雰囲気が変わることを楽しんでいました。
(アニエス・ベーのカーディガンとかも着せてくれてたけど、当時はなんでこんなにボタンが多いんだろう? と可愛さが理解できずにいたりもしたなぁ)
私にとっては色んなジャンルの服を着ることが日常だったし、特別なことだとは一つも感じていませんでした。
小学生、中学生と成長していったある日、周りのみんなの髪型があまりにも変わらないことに疑問を抱いた瞬間がありました。
ふたつ結びの子はふたつ結び
ポニーテールの子はポニーテール
ショートカットの子はショートカット
なぜだかみんな、毎日同じ髪型で登校するのです。
制服と違って、髪型は決められてはいないはずなのに。
どうしてみんな同じ髪型しかしないんだろう?
私には疑問で仕方ありませんでした。
それからまた長い月日が経ち、大人になった私は、相も変わらずその時その時で視覚的に可愛いと思う服をジャンルレスに纏っては楽しむ日々を過ごしていました。
よそおいを変えると自分の中身も変わるような気がして楽しかったのです。
ところがある日、そんな自分の考えを変える、ある出来事がありました。
それは2年前に初めて参加した、フジロックフェスティバルでの出来事です。
ある年齢からはスカートしか履きたくなかったくらい、ガーリーな洋服が好きだった私は、アウトドアな行事を避けて通ってきました。その理由は、アウトドアな服装は自分に似合わないと思っていたので、そういった服を着たくなかったからです。
今思い返すと、なんて馬鹿なことを言っているんだと感じると同時に、それだけ服に強いこだわりを持ち続けられる思春期の頃にも似たエネルギーがなんだか魅力的にも思えたりするのですが。
とにかく、そんな風に思っていた私は、友人にフジロックに行こうと誘われた時も、アウトドア用品にお金を使うくらいなら可愛い服を買いたいし、ちょっと嫌だなぁなんて言ってごねていました。
だけれど、その友人が、私のTHE NORTH FACEのゴアテックスを貸してあげるし、車も乗せてあげるし、泊まる宿も確保してあげるから! と、私のことを説得してくれて(なんて良い友人なんだろう……涙)、私は渋々と重い腰を動かし、フジロックへの参加を決めました。
雨に濡れても良いように田植えの時のようなブーツを履き、ゴアテックスの上着を羽織り、学生の体操服ぶりくらいに、普段のガーリースタイルからはかけ離れたファッションを身に纏った私。フジロックの会場には、似たような服装の人がゴロゴロいて、まるで無個性になった気分。
だけれど、そんな風に景色と溶け込んだ、いわゆるTPOに合いすぎている服装をしたのは本当に学生ぶりだったので、なんだか、そのことにテンションが上がって、本当にフジロックに参加しているんだ! という気持ちになれたことがとても楽しかったことを覚えています。
そんな、いつもとちがって服装で主張していない私は、フジロックのマジックで様々な人と出会い、会話をしていく中でふと気づいたことがありました。
これまで日常の中で、クラブや飲み会で出会う人々とちゃんと話せば仲良くなれるのに、最初はうまく話せないことが多かったこと。よく、見た目と中身が違うね、と人に言われていたこと。
そう、私は、私が身に纏っているようなガーリーな服のような、ガーリーな性格ではないのです。
だから、見た目で声をかけてくれる人とは話が合わなかったり、逆に見た目で嫌厭されてしまった人とは実は話が合ったりしていました。
フジロックでの私は、見た目がとてもフラットだったから、私が聴きに行っているアーティストや、食べるご飯、話す内容、そんなことだけで仲間になれて、そんな風に出会った仲間たちは、一緒にいて今まで感じることがなかったくらいに居心地が良いことに驚きました。
その時、初めて、ファッションは意思なんだと気づいたのです。
本当に気づくのが遅すぎたと思うけれど、物心ついた頃からずっと、ただ、自分をキュートに着飾ることだけを目的に服を選んでいました。
ファッションを自然に楽しんでいたので、当たり前すぎてあらためて自分のよそおいがどういう意味を持つものなのかを考える暇もなかったのです。
そこから、私のよそおいは少しずつ変化していきました。
その間には、もともとキュートなものが好きという気持ちと、自分の意思に近いものを纏いたいという気持ちのせめぎ合いもたくさんありました。
そのどちらもが叶うのはどんなファッションだろう? 少しずつ少しずつ調整しては失敗しての繰り返しの間に、今までは魅力をわかっていなかったジャンルのファッションの良さを沢山知っていったりもしていました。
そんな中、今年の夏に旅したメキシコで、初めての砂漠で大きな自然のパワーを受け取ったり、そんなパワーをそのまま感じ取ることができる様々なグラフィックを見て、また気づいたことがありました。
よそおうことは、私が今こうやって言葉を紡いでいることと、とても似ている。
どんな言葉を、どんな長さで書くのか。それだけで、出会える人や、生まれる感情が全然変わってしまう。
思ってもないことを書いてはダメ、なんて言うまでもない。
ちゃんと、これまでに自分が経験してきたことを踏まえて、自分が発信したいことを込めていく。
私にとってよそおうことは、意思を伝えることと同義に変わっていきました。
まだまだそのことに気づいたばかりの私は、その精度が鮮明ではなくて、伝えたい自分に近づいていけるように悩みながら、今までにないほど吟味して、最近ではあまり新しい服が買えていません。
だけれど、それが嫌ではないし、もともと持っている服を何度も着ることへの抵抗もなくなり、お洒落着用洗剤を使って大切に手入れするようにもなりました。
そんな日々が今はとても愛おしいです。
これからも、私は色んなことを知り、色んな考えをできるように育っていくと思います。
そしてきっと、その度によそおいも一緒に変化していくのだと思います。