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違和感こそが、人生を動かしている/赤澤える

“自分らしく”。それは違和感の正体ではないだろうか

2020年9〜12月 特集:自分らしく?
テキスト:赤澤える 編集:竹中万季
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ヴィンテージアイテムやそれらに着想を得たストーリーのあるオリジナルアイテムを発信するLEBECCA boutiqueのディレクター、赤澤えるさんが9~12月の特集「自分らしく?」に寄せてくださったVOICE。「違和感」を道標にしながらファッション業に携わるようになったきっかけだという、ブランドを始めてすぐにバイイングでアメリカに滞在したときのエピソードを思い起こし、今思うこと。「違和感、その真の姿は自分である。“自分らしく”は違和感の正体なのだ」

“自分らしく”。それは違和感の正体ではないだろうか。
このテーマを渡された夜、私はそんなことを考えていた。

“自分らしく”。その言葉は、自身の趣味や特技、関心ごと、日々のライフスタイルなどを指す言葉のように受け取れる。極めてポジティブなニュアンスであり、実に開放的な語感だ。肯定の空気を感じる。
“自分らしく”とは何かを考える時、自分はきちんと前を向いて生きている人間か、問われているような気分になる。だから人はそれが見つからないと苦しい。苦しいから、それをうまく見つけて生きる人を見て羨んだり焦ったりするのだろう。

“自分らしく”とは何か。私たちがそれを考える時、過去にそう生きてこれた人たちの前例を探してしまう傾向にある。そこで浮かぶ偉人たちは自身の創作や起業に命を燃やしていて、その行動原理を紐解けば、きまって彼らの個人的な違和感が見えてくる。そして私たちはそこに彼らのアイデンティティを感じてしまうのだ。

違和感を抱くことは時に苦しい。が、前述の例にあるように、それは発展に繋がることがある。違和感とは、非常に重要な発見なのだ。他人の言動、主張、批評、議論、意見、表現においても、自分にはどうもフィットしない、ということは多分にある。たとえ、相手のことがどんなに好きだとしても。これはなんとなく嫌だ、あれはどことなく違う、そんなわずかな引っ掛かりを起点にむくむくと靄が起こる。頭で考える前に肌が、心が、何らかをブロックしようとしている。そんな風に、たくさんの人が賛同していても自分だけはのれないことが、この世には確実にある。

違和感は一見ネガティブなものにとれるが、実は“すぐ反対側にある自分の心地よさ”を見つける鍵になると私は思う。無理に見つけようとしなくても自然と感じてしまうものであり、他人にうまく説明できなくても自分だけは実感として確かにわかる。違和感とは自分自身の真の声なのだ。それは単なる嫌悪や拒否とは似て非なるもので、きっと気付きのようなものだと思う。ただ自分に合わないものを知るためのきっかけであり、それを知ることは“自分らしく”に近付くことになる。違和感はきっと誰かを攻撃するためのものではなく、自分を守るためにある。

だからこそ私は、違和感を道標にしながらファッション業に携わることにしている。その大きな動機は自分のブランドを始めてすぐ、バイイングのためにアメリカに滞在していた時のことだった。

慣れない地で疲れきり高熱を出した私は、横になってSNSのタイムラインをぼんやり見つめていた。手のひらで光る有名人たちは、いつも違う服装や洗練された生活を並べてくれる。どれだけスクロールしても常に新しいものに囲まれている夢のような世界だ。

その当時は今と同様、インフルエンサーブランドが日々立ち上がっては消えていた。アパレル業界の低価格層にはSNSの人気者がごった返し、フォロワーが多ければブランドを始められる流れが極めて当然。全く無名の私が太刀打ちできるかは甚だ怪しく、我がブランドが都心の一等地にオープンした時、ほとんどの人が私の未来に懐疑的だった。

ブランド設立の経緯を話す時、社長とどういう関係なのかと冗談交じりに聞かれることがあった。何度もかわしていくうちに意味が分かった。どうやら、私の現状はセックスで獲得した未来だと思われている。そしてその視線は社内外問わず存在している。なんとも言えない虚しい気持ちに襲われた。

自分らしくいれば大丈夫、自分らしく表現していれば問題ない、心がもやもやする度に仲間はそう私を励ましてくれた。有り難かったが、その都度悩んだ。“自分らしく”って一体何?

――そんなことを思い返しながら眺める画面は、なお煌々とこちらを照らす。スクロールを続けながら、今度は先ほどこの目で見たアメリカの景色を思い出す。

数時間前、私は大きな衝撃にむせび泣いていた。バイイングのために訪れただだっ広い倉庫で目の当たりにした、私の身長を遥かに越える服の山。必要とされて作られたはずの服が、不必要とされてここにいる。それも驚くほど大量に。意味も価値も持たず報われないまま横たわり、私たちに引っ張り出されるのを待っている。広大な土地に膨大な量。所狭しと積み上がるそれは、服というより布の塊。一人ではほとんど動かせない。一日二日ではたったの一部を見るのにも足りなかった。

こんなに余っているのにどこに服をつくる必要があるのか。大量生産しなきゃいけない意味とは何なのか。私は思わずしゃがみ込んだ。これを目撃している瞬間にもなお新しい服を生み出している自分がやるせなくなり、内から激しく湧き起こる感情に嗚咽した。もう服なんてつくらなくて良い。服はここに、こんなにある。その場から動けずに、眼前の光景にひとりただ絶望した。

現地の方に声をかけられ我に返り、バイヤーとしての自分を取り戻す。服の山にのぼる途中で後ろから呼ばれた気がしたが、泣き腫らした顔が恥ずかしくて振り向けなかった。
呼吸を整え、服の山に腕まで突っ込む。価値ある品をひとつ、またひとつと救い出し、私だけの小さなブティックがそこにできる。泣いていた時間は仕事上ではロスタイム。はるばるここへ来させてもらった意味を全うしなければ。
暫く没頭するものの、手を止めるとまた涙が出る。自分らしくいれば大丈夫、自分らしく表現していれば問題ない、余計なことはいったん忘れてあの言葉たちを意識する。この山から、私の自分らしさを見つけ出さなければ。でもそれって何だろう? 一体どうしたら良いのだろう? 私はもう元には戻れないのだろうか。先へは進めないのだろうか。
私の体はだんだん火照りだし、全てが終わる頃には39度の熱を出していた。

帰り道、熱にぼうっとしながらも運転手と会話をした。人気者のグッズと化していくアパレルの現状、笑い飛ばしてやりたい枕営業の噂や、くだらない愛人説、先ほど初めて見た服の山、有り余るアパレル業の産物たち、私たちを飾り私たちを壊すファッションの実態。悔しいのか、悲しいのか、何が正しいのかもわからない。私に覆いかぶさる違和感を、整えないまま運転席に向けてこぼした。彼は相槌を打って微笑むだけで、ほとんど喋らない。私は胸が詰まり、またぼろぼろと涙を流す。感情的になるのは未熟の証だ。心からうんざりする。何故こんなに不安定なのだろう。世の中はこれで回っているのに、気持ち良く順応できない私はどうすべきなのか。

車はフリーウェイを飛ばしていく。ロサンゼルスの空は、いやというほど突き抜ける青だ。力なく横たわる私は、服と一緒にごとごと揺れる。いつまでも顔を濡らしていると、運転手はちらりとこちらを見て微笑み、それからこう言った。
「違和感を見逃さずに向き合うところ、長所だと思いますよ。そういうところが自分らしくて良いじゃないですか。世の中、そこから変えていけますから」

――熱はまだ下がらない。慣れないベッドに転がりながら、先ほどの運転手の言葉を反芻する。“違和感を見逃さずに向き合うところが長所”、“そういうところが自分らしくて良い”。彼が言う“自分らしく”は、前向きで清々しい一般的なそれとは少々異なる気がする。でもそれは確かに、私の生粋のオリジナルかもしれない。その視点は無かった。私は心がだんだん軽くなっていくのを感じた。

翌朝には平熱に戻り、私は帰国までバイイングを続けた。その道中、ずっと同じ運転手に話しかけた。彼は相槌を打って微笑むだけで、ほとんど喋らない。が、私の違和感に触れる話には、それが自分らしさだとか長所だとかそういう言葉をかけてくれた。私はその表現を何度でも味わった。

こんなに服が有り余っているなら、私がその服にもう一度光を当てよう。そのために私は古着屋をやるのだ。こんなに服が棄てられるなら、私は大切にされる服だけを作ろう。そのために私は服屋をやるのだ。うまくいかないこともあるだろう。でもその時はきっと、また向き合うべき新たな違和感が見つかるはずだ。
私は自分を鼓舞するように、時には慰めるように、何度も繰り返し自分に語りかけた。少しでも不安がよぎれば、目を閉じて運転手の言葉を思い出した。そうしていちいち心を整え、それから次なる服の山に立ち向かう。あの違和感は、いつしか私の手足を動かす力に変わっているようだった。

違和感の反対側には、きっと逆の何かが待っている。納得感、安堵感、幸福感、高揚感。程度は違えど、おそらくそう言った類の上向きなものであると私は信じている。もしそのとおりであれば、違和感とは自分らしく生きる第一の手がかりである。ネガティブな要素に感じるが、実はそれだけでは決してない。違和感、その真の姿は自分である。“自分らしく”は違和感の正体なのだ。

あのアメリカでの経験から4年半。現状には深く感謝をしているものの、私は今も違和感を抱え続けている。おこがましいようだが、それとこれとは別なのだ。自分の現在地を含むアパレル業界のありかた、有耶無耶にされた未解決のハラスメント問題、本質的な解決を目指しているのか不透明な姿勢、声をあげることの必要性やその個人差への心ない声、そしてそこに確かにある圧。私が抱える違和感は、服屋を続けていく原動力になりながら、ここでこのまま続けていくべきなのかを自身に強く問いかけ続けてもくれる。違和感こそが、人生を動かしているのだ。

違和感は、自分を守る。そして自分だけが守れる。その正体は自分だからだ。今すぐ誰かに明かさなくても、例えわかってもらえなくても、それを抱えるも抱えないも、他人に強いられるものではない。

“自分らしく”。それは違和感の正体ではないだろうか。
このテーマを書き終える夜、私はそんなことを考えている。

PROFILE

赤澤える
赤澤える

2016年、ファッションブランドのディレクターに就任したことをきっかけに活動を本格始動。デビュー時から度々執筆しているエッセイなど、文筆に高い評価が集まる。
2020年、アートブック「私たちのワンピース」を出版。同年「私たちの株式会社」を設立。ものづくりの背景やコンシューマリズムへ強い関心を寄せており、自身の体験や解釈をベースに発信を行う。

INFORMATION

初出版となるアートブック「私たちのワンピース」、青山ブックセンターにて販売中です。
赤澤える『私たちのワンピース』 | 青山ブックセンターオンラインストア

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