櫻子:週に二、三回は普段はしないことをする。慣れないことを意識して取り組む
気軽に外出ができない時期が始まってから、周囲で身を持ち崩す人が増えた。目に見えない不安や、漠然とした焦燥感で覆われながら暮らしていくのは確かに鬱屈だ。いつもと違う生活サイクルを強制されると、理屈では分かっていてもやはりどこかでガタがきてしまうものだろう。
そんな私も、自粛生活を始めた最初の10日ほどは、酷く塞ぎ込んでしまっていた。手頃な娯楽は沢山あれど、インスタントに退屈さを誤魔化していると、どうも心の片隅で現実逃避を繰り返しているような居心地の悪さを抱いてしまい、かえって自己欺瞞な気分がくっきり浮かび上がり、ますます閉塞感に苛まされてしまっていた。
毎日変わり映えないスケジュールをなんとなく捌いていても、このままじゃすぐに根負けして、ダメダメになってしまうなと危機感を抱いてから「週に二、三回は普段はしないことをする。慣れないことを意識して取り組む」という自分ルールを定めた。ふんわりとしたルールだが、必ず守る。結果的にこれが功を奏してみるみる私は回復した。スケジュールにこまかな予定を詰め込むことで、メリハリが生まれ、不必要なまでにうんと先の不確定な未来を案ずる時間が減ってきたのだ。
まずは水場や家電をメインに大掃除、身の回りの整頓、模様替え。ひと段落ついたら日用品のメンテナンスの期間。衣類や装飾品、鞄や靴をメンテナンスしてみたり、観葉植物の植え替え、珪藻土マットのやすりがけ、簡単な家具の修繕。本棚の整理。手元の積読本を数えたり、運命の出会いを果たした書籍にはオリジナルの蔵書印を押してみる。いつもならどこかにお願いしてきたこともチャレンジしてみる。たとえば長毛の飼い猫のサマーカットはまるまる一週間費やした。お世話になっているトリマーさんの技術の高さをあらためて実感。そんな調子である程度続けていると、だんだん「こんなこともできるかもしれない」と自宅でできることがどんどん思いつくようになる。使い古した食器に絵付けしてみたり、継続できそうな自分なりの宅トレを試行錯誤したり、様々な魚の捌き方を練習してみる。ああ、恐ろしい。縦横無尽にあれこれとめどなく溢れ出てくるではないか……。
掃除の方法から食器の模様のアイデアまで、わからないことはすぐに手元の電脳大百科辞典……。もとい、インターネットでググると先駆者の記録やヒントが沢山見つかる。いちから手探りと違って、彼らの経験談はとても頼もしいし、知識の共有を経ると孤独な作業でもふしぎと誰かと繋がっている気がしてくるのだ。
これは推測だが、最初の10日間の心の塞ぎ込みは、知らず知らずのうちに自意識が肥大化していた故だったのではなかろうか。経験したことのない形の非常事態に対して、常に冷静でクレバーな判断をして対処しないとならない。私は正直、この漠然とした不安感をすんなり受け入れるのが怖かった。
10年前の大地震のとき、自分自身は大きな被害には見舞われなかったものの、無意識に過熱した不安感で判断を誤り、瞬間的にひとつ、酷いデマの拡散をしてしまったことがある。これが私にとって痛恨の悔やみで、あれからずっと、強く自戒として刻まれている。そして今回の状況でも無自覚に恐慌状態に陥って、なにか取り返しのつかないことを起こしてしまったら……という強い抑制心が働き続け、不安の吐露はおろか、最初に抱いていた焦燥感すら認めるのがとても怖かったのだ。結果的にこの“不安の黙殺”がきっかけとなり、瞬間的に、自意識が急速に育っていたのではなかろうか。
それらが大小様々なメンテナンスを続けていると、修繕されていく品々に不思議と自分を重ね合わせて癒されたり、ささやかな挑戦を繰り返すことで見える変化が、自分とこの世界はきちんと結びついているんだなと行き場が見つからず、風船が膨らむように肥大化していた自意識が、小さくしぼんでいったのだ。
自意識がしぼんでいくことで、ある意味「ちっぽけで寄る辺もない」と当初は感じていた無力感が、不思議と癒され、「ちっぽけだが、生きているんだな〜」となんだか頼もしい心地良さに変わった。
骨の折れる作業が、もしかしたら自分を癒してくれたり、何かを知るきっかけになるかもしれない。誰かと繋がっている実感を得るのは、きっと会話や、単に一緒に過ごす時間だけではないのかもしれない。すこし長めの非日常が、私に新しい癒し方を教えてくれた。
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