たとえ他の人に理解されなかったとしても、自分だけの好きなものを持って生きてゆくのは尊いこと。She isでは、リクルートスタッフィングとBEAMSが運営するサイト「出会えた“好き”を大切に。」と連動して「エッセイ:『好き』をおいかけて。」の連載を行っています。今回は、「自意識過剰と恋愛不適合をゆるコミカライズする」をテーマにTwitterなどで漫画やイラストを発表する黄身子さんによる漫画とエッセイをお届け。
覚えもなく誰かに気に入られるときはよく、「自分の好きなものを貫いてるところがいいよね」と言われてきた。別に私も自信はなくて、多分好きなもの以外をすぐ嫌ってしまう悪癖のせいで表面上そう見えるだけだけど、「好き」って多分曖昧な感情だから、好きなものに対して確信を持っていそうな人が良く見えるのはわかる。
でも、そんなつかみどころのなさに振り回されながらも、たまに心からの「好き」に出会えるときがあるから、世界をあきらめずにいられたりする。
そういう強い「好き」には2種類あると思う。1個めは直感的なもの。緊急事態下に国際便で届いたSisi Joiaのハートのチョーカー、学生の頃にバイト代を全部注ぎ込んだAKIKO AOKIのコート、新生SWIMMERの小さいミラーにやっと出会えたときの感情には、大げさだけど運命みたいなものを信用していいんだなと思えた。愛することを躊躇わなくていいものに対する、影のない好きはいつもその日を明るくしてくれる。
2個めは執着的なもの。明るい気持ちだけでいられないのに、なんど回っても戻ってきてしまう。そして私にとって漫画を描くことはこっちの「好き」だった。
物心ついた頃から少女漫画とかわいい女の子が好きで絵を描いていて、勿論「好き」だけで道を選べないことはたくさんあったけれど、「迷ったらあいだじゃなくて両方とろう」としぶとく思い続け、それが回り回って道が分かれ、会社員をしながらだけど漫画を描くいまの生活になったのは、わりと夢のようなことだった。身体がいくら疲れて漫画を描く作業が面倒に思う夜も、描き始めたら不思議と時間軸が変わるように思えて、省エネしたほうがいいとは到底思えない。描くことで「好き」の対象だった憧れの女の子たちや好きなものがたくさんある世界に近づけたのも魔法のようで、失う時間より得る力がどんなに大きかったか。なによりそういう自分を前よりも好きになれた気がする。
影のある気持ちだから、好きという言葉で表現するのもなんだか恥ずかしいけれど、一瞬だけじゃなく私の日々を照らしてきてくれたものだった。
その2つのあいだには、強くはなくても温かく照らし続けてくれる、ひだまりのような「好き」もあるのだろうと妄想するけれど、それに出会えたことはまだない。かわいいものは好きだけど、何か一つのものや人にあまり入れ込めないからマニアにもオタクにもなれないし、ひとりの人をすごく愛することもわからない。
私の「好き」は寂しい愛しかたのように思えて絶望するときもあるけれど、群像劇みたいなものが大好きなのは、好きの形が分散しているからかもしれない。愛し方やすれちがい方のバリエーションが描かれるラノベ『マリア様がみてる』とか、いろいろな舞台でいろいろな女性たちの物語を見せてくれる吉澤嘉代子さんの音楽にはどんなに支えられてきたかわからない(最近はその目線でハロプロを見まくっている)。
自分をとりまく状況が閉塞して感じられるとき、世界がたくさんあると思えることほど救いになることはなかった。自分の描くものがいちばん好きなものだと思えなくて落ち込むこともあるけれど、匿名的な女の子のパラレルな物語をたくさん描いてきたことは、愛してきたものの延長にある気がしている。
本当に好きなものはいつも自分だけの秘密であり拠り所だった。それが巡り巡っていまの私をつくっていると思えば、自分自身のこともちゃんと好きでいられるのかもしれない。