Nさんに会いに行こう、と思う。本屋に行こう、というよりは。
渋谷から82番のバスに乗って、246を走る。三軒茶屋と駒沢駅前を通り過ぎ、大学と公園のそばを過ぎる。
「深沢不動前」で降りると店はもうすぐそこ。店は洋菓子店の2階にあり、あたりにはいつも甘いバターの匂いがただよっている。
ガチャンと音を立ててそのドアは開く。いつも店内は暗い。外があかるいほど「迷い込んできた」気持ちになる。
「こんにちは」
Nさんはいつもそう言って迷い込んでくる人たちを迎え入れ、何か聞かれれば答え、片方の頬だけを引き上げる(ニヒルな)笑い方をしてみせる。
あたりまえだけど店にはたくさんの本があり、ガラクタがあり、アート作品があり、レモンがあり、Tシャツがあり、狐の剥製があり、座り心地のいい古いソファがあり、コーヒーがある。それからお酒も。
ここは店主の部屋であり世界の一角。だけどわたしはここで、簡単に寛ぐことができる。
この本屋の店主が一体どんな人物であるか、あるいは“どんな人物であってほしいかという希望”がこの店には現れているから、たぶんここを訪れる(かなり多くの)女たちはNさんにほのかな恋心を抱いてしまうこともあるだろう。その人の部屋に入って、ますます恋心が高まってしまうということが往々にしてあるように。
そしてなにより、Nさんは、あの笑い方をするから。
それがすごくセクシーだから。
思うに、人はちょっとダメな方がセクシーなのだ。
だからいつもそこだけに惹かれて恋に落ちては、不幸になる男女が一定数いるように思う。
例によって、Nさんは「ちょっとダメ」さもきちんと持ち合わせているような気がしているのだけど、どうだろう。
それは本人に言ってみたことがない。
さて、そんなセクシーガイにも忘れられない彼女についての話を聞いてみた。
Nさんはいつだって聞けば大抵のことは答えてくれるのだ。
20代で鹿児島から上京し、デザイナーとして仕事をしていた。
貧乏生活を越え、“ある程度”仕事も生活もできるようになった頃、編集者の彼女と出会った。
「彼女はパジェロイオに乗ってて、小柄で華奢で、美人というよりキュートな容姿。ちょっとお嬢様育ちなところにも惹かれたかもしれない」
2人は世田谷のファミリーレストランでよく待ち合わせをした。
Nさんはホンダモトクロスのトリコロールで、彼女はパジェロイオで乗り付ける。
深夜のファミリーレストランは不思議な場所だ。
オレンジ色の明かりの下でだれもが他人には無関心で、だけど存在を肯定しあう優しさもあり、コーヒーやフルーツパフェやポテトフライやハンバーグステーキはどこか夢の中の食べ物みたいな味がする。
そんな現実味の薄い空間の中、彼らは2人の世界がここに存在することが最も鮮やかで確かなことだと感じていたのかもしれない。
Nさんは恋をすることのあかるい楽しさに満足していた。彼女は可愛かった。
「ほしいものはたぶんなんでも買ってあげたし、行きたい場所にも連れてってあげたし、伊勢丹でカルティエのリングだって買ってあげたんだよ」
仕事をし、デートをし、セックスをし、たまにプレゼントをし、完璧にいい彼氏だった。
「ジェントルになりたかったんです。そういう男に憧れてたから」
Nさんがあの笑い方をする。
完璧な彼氏でいることにたまに飽きれば浮気もした。彼女が気付いていたのかはわからない。
「恋人ってさ、ある時期を過ぎると、共通点に喜べなくなり、相違点にはストレスがたまるようになる。あんなにもキラキラしていたものたちが去っていってしまうんだよね」
ある夜、いつものファミリーレストランに呼び出されて行くと、Nさんいわく「とんでもないところからボールが飛んできた」。
彼女はNさんに別れたいと告げたのだ。
「シュウシュウ(Nさん)は、ぜんぜん優しくないから、だから今度付き合う人には優しくしてね」
「『こいつ何言ってんだ?』って初めは怒りもわいたんだけど……、つまりキズついたんですよね。だって与えるものは与えていたし、僕はジェントルな男だと思っていたから。だけど考えてみれば、それはね、自己満足でしかなかったんです」
彼らは駐車場で別れた。いつものように、彼女はパジェロイオに乗り、Nさんはホンダモトクロスのトリコロールにまたがってそれぞれの家に帰って行く。
呆然としながら朝方のほの青白い空気の中を走った。
「3ヶ月くらいもんもんと過ごしてましたよ。部屋の掃除したり本読んだりしながら、彼女のあの言葉を反芻してた」
―「シュウシュウは、ぜんぜん優しくないから」―
「結局のところ、あの言葉にこめられた彼女の意図はわからなかったけれど、何もかも見透かされていたような気持ちにもなった。いいかっこしいだった自分がだんだん恥ずかしくなって。
大げさでなく、人生変わったんです。あれはブレークスルーだった。もうかっこつけるのはやめて、思ったことは言うことにしたんですよ。それからは人生がどんどんオープンになった。彼女はそういうきっかけをくれた人」
そのときガチャリ、と音がして店のドアが開いた。入ってきたのはまだ10代に見える女の子。
大きなカバンを斜めにかけて、店内をきょろきょろ見回しながらこちらへ近づいてきた。
「こんにちは。そのカバン、いいですね」
Nさんの言葉に3人の目がそこへ集中する。
カバンにはカタカナでこう書いてあった。「スーパー・ハイパー・スペイシー」。全員の声が揃った。
笑いがうまれ、わたしたちはあっという間に打ち解けてしまう。
ここは店主の部屋であり世界の一角。だけど誰しもがここで、簡単に寛ぐことができる。