Kさんの話すことの8割は噓、もしくは冗談だと思っている。
Kさんとはこれまでいろんな話をしてきた。恋のことはもちろん、仕事、夢、生活、喜びやくやしさや悲しさや怒りや……たぶん人生というものについて、あちこちの居酒屋で話してきた。彼の話はいつだってわたしを楽しませ、わくわくさせ、そしていろんなところへ連れて行ってくれる。それはまるで映画を観てるみたいな感じで、だけどKさんはたぶん、次の日にはそんなことさっぱり覚えていない。後々、聞いた話がぜんぶ作り話だとわかったこともあった。
Kさんいわく、高校生時代には演劇部の脚本を書いて名を馳せていて、地元ではちょっとしたスターだったらしい。話術に長けているのは当然のことと納得した。演劇部はいろんな表彰を受け、脚本家への道を勧めてくれた人もたくさんいたけれど、その道には進まなかった。Kさんはそういう人だ。あまのじゃくだし、貸した本はいつまでも返さないし、いい歳してラップなどして(昔は“ほんとうに”名の知れたラップグループの一員だったらしい)、シャツの上から腕時計を巻き、病院でたばこを吸い、夕方からお酒を呑み始め、ギャラリーに集う若者に囲まれ、うれしそうに談笑している。
だけど、たまにとても寂しそうに見える時があって、わたしはKさんを放っておけない。たとえ今までさんざん聞いてきた話がぜんぶ噓だとしても、それでいいと思えてしまう。
だからおでんを食べながら聞いたこの失恋の話も噓かもしれない。
Kさんが大学生時代の話だ。同じゼミにいた彼女はどこか特別な存在だった。やたらにキラキラして見えたし、背が高くてモデルみたいにスタイルがいいし、なんというか洗練されていた。事実、男からも女からも人気があって、自分なんかとは縁のない女の子だと思っていた。
「目尻にさ、ちょっとだけ赤いラインをいれてるんだよね。ヒュッて。それが妙に色っぽかったのを覚えてる」
彼女とはそんなに口も聞かないまま卒業式の日を迎え、式の後は同級生たちと呑みにくり出した。たいして楽しい思い出もなかったけれど、今日で顔を合わせるのも最後だと思えば急に愛着もわいて、みんな結構いいやつらだったと思えた。すっかり楽しくなって二次会、三次会も終え、Kさんは最後まで残ったメンバーと駅のホームで電車を待っていた。そこには彼女もいた。
「もう終電だね」「朝まで呑むでしょ!」「うそ、わたし帰るー」「えーさみしい!」
みんな好き勝手なことを言い合って、赤い顔で笑っている。やってきた電車にいっせいに乗りこんだと思ったら、ドアが閉まる瞬間、Kさんと彼女を車内に残してみんながわっとホームに降りていった。そして、ドアは閉まる。ホームでにやにやしながら手を振って遠ざかっていくきっともう会うこともないかもしれない“仲間”たち。Kさんは彼女と顔を見合わせて苦笑いした。どこでこういうことになったのかわからない。あの彼女が今となりに立って、所在なさげにはにかんでいるのをわずかに緊張しながらも歓迎している自分がいた。
「あいつら……ね?」
「ね」
とにかくこれは終電だ。Kさんは彼女と自分の家のある駅で降りた。
「公園で酔いをさますことにして、2人でベンチに座ってしばらく話したんだ。そんなふうに彼女と話すのは初めてだった。スタイルはいいけど個性的な顔立ちはタイプじゃないと思ってた彼女の横顔をそのときまじまじ眺めて、すごくきれいな子だって気づいたんだよ」
春の夜はどこかのんびりとしていて、月が見えた。
彼女といくらでも話していられそうだった。それと同時にいつまでも沈黙していられそうでもあった。
そう、恋は沈黙から始まるのかもしれない。
2人は互いの家を行き来するようになった。彼女は美容師の友人Nちゃんと屋上のあるアパートをシェアして暮らしていて、屋上にはたくさんの植木が置かれていた。どの植木も弱々しく元気がない。彼女はいつも水ばかりやっていた。土しか入っていないプランターを指さして、「それはひまわり」などと、嬉しそうに教えてくれながら。
彼女の部屋には乗らないはずのバイクのヘルメットが置いてあり、Kさんはわずかに気になってはいたが、なんとなくそれについては触れられないでいた。
やっぱり彼女は自分とは少し違う場所にいるように感じるときがあって、その曖昧な不安のやり場がわからないまま、Kさんはある日打ち明けられたのだった。
「彼氏がいるの。でも、あなたのことも好き」
そう言って彼女は泣き出した。
「その彼氏はね、Kくんも知ってる人なんだ」
「聞けば同じ大学にいた嫌なやつだった。デカいバイクに乗って態度もデカいやつ。なんであんなやつと? って思ったんだけど、なぜかかっこつけちゃったんだよね。理解ある男、余裕ある男を演じちゃってさ。すぐじゃなくてもいいから、その彼氏に話しなよって。それでできればそいつとちゃんと別れてほしいって。そしたら彼女は頷いたんだよ。だから内心自信あったんだよね。ほら、ぼくが選ばれるはずだってね」
ヘルメットは、あのデカいバイクの後ろに乗るためのものだったわけだ。
それからずいぶん待った。いつの間にか季節は夏になって、Kさんは下北沢のバーで働きながら将来も見えず、もんもんとした日々を過ごしていた。
「ごめん、言えなかった……」
会う度、彼女は苦しそうに告げた。それは本当に苦しそうに見えた。
ある日、しびれを切らしたKさんは決断できない彼女を責めた。初めてのけんかだった。
「だってわたしは2人のことが好きなんだよ」
「それからしばらく連絡しなかったんだ。苦しそうな彼女を見るのも辛かったし、嫉妬に疲れてもいたし。もう夏も終わる頃にさ、彼女の家をたずねたんだよね。そしたらいなかったんだよ。出てっちゃってたの」
Nちゃんが家の中に入れてくれた。彼女の部屋のほとんどの物がなくなっていたけれど、ヘルメットはそのまま置いてあった。
「結局どっちも選べなかったんだろうなあ。それでそのままどこか消えちゃったの。なんかさ、最後まで彼女が何者だったのかわからなかったんだよね」
屋上に行くと植木はやっぱりぜんぜん生き生きしていなかった。あんなに水をやるからだ。ひまわりのプランターからは芽すら出ていない。もう夏は終わってしまうというのに。
Nちゃんがビールを持って上がってきて、なぜか2人で乾杯した。西日が照っていたけれど、風は涼しかった。
「わたしたち、ただここで暮らしてただけだったんだけどなあ」
「責められてるような気もしたよ。ぼくは彼女たちの平穏な生活を壊してしまったのかなあって。Nちゃんの言葉も、屋上で水ばっかりやってた彼女の姿も、ぜんぜん咲かないひまわりも、残ってたヘルメットも、ぜんぶ悲しかった」
Kさんは大根を半分こにしてくれる。
「辛子、いる?」
わたしは西日に照らされていたそのKさんの悲しみを抱きしめたいと思いながら、つけすぎた辛子に鼻をつまんだ。Kさんはそれを見て笑った。もうだいぶ酔っぱらっている。