Uさんとは取材をきっかけに知り合った。初めて出会ったときはそのキリッとした目鼻立ちとたくましい体つき、思わず「アニキ!」とよびたくなるような雰囲気が、彼の描くイラストの世界観とすんなりと結びつかなくて驚いた。だけどそのギャップこそUさんの魅力の一つでもあると思っている。
Uさんが描くのは、「かっこいい女」。仁王立ちした女たちは、無表情だけど強い眼差しを向け、奇抜なファッションを鎧のように身につけている。一度見たらなかなか忘れられない絵だ。描かれている女たちはみな、Uさんの憧れる女性像そのものなのだと教えてくれた。
そんなUさんが、10年前、横浜の黄金町で過ごした日々と恋のことをまるで昨日のことみたいに話してくれた。それくらい鮮明に、心にも体にも染みついて残っている彼女のこと。
2008年、ちょうどその頃、将来への漠然とした不安を抱えながらまんじりともせず過ごしていたUさんは、知人に声をかけられたのをきっかけに、横浜の黄金町で開催されるアートフェスティバルのスタッフとして働くことになった。
約2か月間の開催期間中、世界各国から若手アーティストたちが集まり、会場ではさまざまなイベントが行われた。地元の人も加わり広がっていくあたたかなコミュニティのなかで、Uさんは刺激的で楽しく、充実した日々を送っていた。
フェスティバルも終盤に差しかかったある日、福岡から一人の女の子がゲストアーティストとしてやって来た。それが彼女だった。
「一目惚れです。スラッと背が高くて、短い髪。おっきなヘッドフォンをつけてた。黒縁メガネの奥のぱっちりした瞳がね、今まで見たことのないくらいに澄んでいてきれいだったんだ……」
Uさんは熱っぽく語る。
「でもね、一見超クールな見た目とは裏腹に、ものすごい方言で話すんですよ。そのギャップがまた可愛くて」
彼女の滞在期間は7日間。その間、スタッフの暮らす小さなアパートを、それもU さんの隣の部屋を使うことになった。
次の日からUさんは積極的にアプローチを始めた。なんと言っても時間がない。ランチに誘い、玄関の前でさりげなく待ち伏せしては、彼女と顔を合わせる機会を必死に作り出した。
どんどん膨らむ恋心と、だけど思いを伝えられないまま時間だけが過ぎていく焦り。
隣の部屋からは、彼女がドアを開ける音やガスコンロに火をつける音、シャワーを浴びる音……親密であたたかい音が聞こえてきた。それは彼女の存在そのものだった。
彼女は、展示や作品製作の合間には町の人たちと笑顔で交流し、見かけによらない屈託のなさですっかり人気者になっていた。それはUさんにとって少し寂しくもあった。今までできる限り彼女と言葉を交わし、自分の気持ちもアピールしてきたつもりではあったが、彼女が自分のことを一体どう思っているのか、さっぱりわからなかった。
5日目の夜中。ルームメイトにも背中を押されたUさんは、ついに気持ちを打ち明けることに決めた。そう、なんといっても時間がないのだから。
「話したいことがある」と、Uさんが訪ねると、彼女はわずかに警戒しながらも部屋に入れてくれた。
大きな家具などなにもない、殺風景な畳の部屋には薄い布団がひかれていて、なんとなく目のやり場に困った。こうこうと蛍光灯が二人を照らし、正座して黙り込むUさんを彼女はじっと見つめた。あいかわらずきれいな目だ。
沈黙に耐えかねたのか彼女は、いつも首に巻き付けている大きなヘッドフォンをスピーカーがわりにして、音楽をかける。
流れてきたのはトム・ウェイツの“little trip to heaven”。大好きな曲だった。
Uさんは黙ったままうっとりと歌声に身をゆだねる。このタイミングでこの曲が流れるだなんてちょっとできすぎだ。小さな畳の部屋は、輝く宇宙船となり、二人を乗せて星空へと舞い上がっていく。
<And it's you……>
<そう、君なんだよ……>
二人はぽつりぽつりととりとめのない話しを始め、Uさんは相槌をうったり小さく笑ったりしながら気持ちを伝えるタイミングを見計らっていた。
だけど先に打ち明けたのは彼女だった。
「わたし、不倫してるんです」
Uさんは絶句してしまう。
「もう言えるわけないじゃないですか。頭真っ白になっちゃって」
「優しい人です」
彼女はぼくとつとした口調のまま、だけど少し頬を赤らめて続けた。
あとの話の記憶は曖昧だ。彼女の好きな男のことなど聞きたくなかった。「そんな男やめて俺のところに来い」だなんて、そんな無責任なこと言えただろうか? ふと冷静になってみれば、この仕事が終わればまた退屈でうだつのあがらない日々が待っているのだ。
Uさんは脱力したまま立ち上がり、玄関で靴をはいてからゆっくりと振り返った。
「その人のこと、本当に好きなの?」
小さいけれどはっきりとした声で、彼女は「はい」と、答えた。
彼女との間に圧倒的な分厚い壁ができたのを感じた。もう彼女の音は聞こえない。なんてことだ。さっきまでの夢心地はすっかりどこかへ消えてしまった。
午前3時半、重い足取りでアパートの廊下を歩いた。隣の自分の部屋までの距離がずいぶん遠く感じられた。
部屋に戻り、そのまま眠れるわけなどなくベランダに出ると、タバコのにおいが漂ってきた。肌寒く透明な秋の空気のなかで、今となりにいる彼女の気配を感じながら、Uさんはただ黙ってそのにおいをかいでいた。
<明けの空 君という太陽のまわりで星は見えなくなっていく
幸運の星に感謝してるよ 君の笑顔を眺めてるだけでおれにはわかるんだ
この先、誰もその場所を代わりに埋めることはない
それは君なんだ そう、君なんだよ……>
7日目の朝。
Uさんは、早朝からアパートの外で彼女が出てくるのを待っていた。彼女が朝の飛行機で帰ることを聞いていたからだ。部屋のドアが開いたのが見えたとき、Uさんは手にもっていたプラカードを思い切り高く掲げた。それには「黄金町行き」と大きく書いてある。駅まで見送るつもりだった。
「このまま彼女と離れてしまうのはちがう、と思ったんです。二人のあるべき適度な距離に戻りたかった」
トランクを片手に階段を降りてきた彼女はそんなUさんの姿を見つけて笑い出す。そして、Uさんに手を差し出して言った。
「わたし、Uさんがいてくれてよかった。最後に握手してください」
Uさんが今描き続けている女たちは、どこか彼女の魂を宿しているような気がしてくる。澄んだ瞳で真っ直ぐにUさんを見つめていた彼女が、Uさんの手で何度も何度も生み出され続けている。
「そう、君なんだよ」
そんなふうに、思いをこめられて。