Nちゃんは、20代の頃から付き合いの続く大切な友人だ。4年前に結婚し、今は3歳の男の子の母親でもある。
そんなNちゃんの夫、Y君が今回のHe。
彼らは、昔から夢みてた海の近くの白い家で、家族3人仲良く暮らしている。
今さらという感じもしたのだけど、よく知っているはずの親友の夫のことを私はあまり知らなかった。
出会った頃の印象ははっきり言ってよくない。
無口で、なんだかいけすかない感じだったような気がする。さらには「一生独身宣言」をしていたところも気に食わなかった。
だけど、そんなY君がNちゃんと結婚を決めて、それから彼はずいぶん変わったように思う。一言で言えば、人間味が出て優しくなったというか。
今や私にとってNちゃんと同じくらいなんでも話せる友人の一人になっている。
一人の人間をこのように変えることもある「結婚」って、なんだかすごいぞ、と思っていた。
結婚って、なんなのだろう。
夏も終わりのある日、彼らの家の近所にある素敵なレストランで、Y君の話を聞いていた。Nちゃんも子どもも一緒に。
目の前の海がどんどん濃いオレンジ色に染まっていく。
出会ったころは「一生独身宣言」をしていたY君だが、過去に一度だけ結婚を考えた彼女がいたのだという。
「職場の先輩だった。仕事はバリバリこなすし、当時の俺が知らなかったことをとにかくたくさん知ってたよ。ファッションもデザインも、それにまつわる歴史やカルチャー、いいフォトグラファーとかいい映画とか。彼女の『いい』と言うものはみな洗練されてるように感じられたんだ」
その話を聞いてお高くとまったキャリアウーマンを想像したのだけれど、映画『あの頃ペニー・レインと』が好きだったという彼女は、ふわふわのパーマが可愛らしいチャーミングな人だったという(ちなみにこの映画は私も大好きだ)。
はじめは憧れと尊敬。そしてそれはいつしか恋心に変わった。
2人は社用車で夜な夜なドライブにくりだした。光り輝く横浜の夜景、彼女の横顔。
「Yのデザインは硬い。まじめすぎるのよ」
彼女の言葉は辛辣なときもあったけれど、大体において的を得ていた。
「彼女に言われたことは今も覚えているし、実際に仕事に役立ってきたことばかりだよ。あれからデザインが硬くらないようにってことは、ずっと意識しているんだよね」
彼女はいつもかかとの高い靴を履いていた。
「彼女は『すごく女』だった。それまで、スニーカーにパーカーみたいな、ちょっと中性的な子としか付き合ったことなかったから、はじめは戸惑ったくらい。下着にはこだわりがあるし、伊勢丹の化粧売り場で化粧品を買うし。お洒落なカフェやらセレクトショップやらをいくつも知っているし。だけど、そうか、女のひとってこんな楽しみがあるのか、なんて発見がたくさんあったな」
間もなく2人は一緒に暮らし始めた。仕事も生活も共有できる、いい関係が築けるような気がした。
彼女は、そのころ長かったY君の髪を邪魔だとか、痩せている体がゴツゴツして痛いとか言いながらも、胸の中にうずくまって眠った。仕事中の強気な顔とはぜんぜん違う、どこかあどけなさを残した顔。そんな顔を見るたび、彼女を心から愛しいと思った。
「それから結婚するまで、交換日記をしようよって話になったんだよね……」
Nちゃんとだってなかなか結婚を決めず、よもやずっと独身でいたいと言っていた彼が過去に「結婚したい」という思いをもったことがあっただなんてやっぱり意外だった。
だけど、そうならなかった。一体なぜ?
2人の仕事はどんどん忙しくなっていった。どちらかが家に帰らないこともあったし、お互いくたくたに疲れ果てて家に帰れば、無言で眠るだけの日々。ケンカも増えていった。交換日記がたよりない命綱のように二人の間を行き来していた。
そんななか迎えたあるクリスマスイブのこと。
「なかば意地だったんだよね。2人ともちゃんとドレスアップして、かっこつけて。ブルーノートでライブを見たあと、青山の高いレストランで食事をした。まわりはみんな幸せそうなカップルだらけで俺たちだけが終始無言でさ。異様な雰囲気だったと思うよ」
無言で食べる豪華なデザートほどこの世にさみしい食べ物はないかもしれない。
「彼女は帰ってすぐ、まだ夜10時だったのに寝てしまって……疲れてたんだよね。俺はなんだかなにもかもやるせない気持ちで、朝まで眠れなかった。俺たちは幸せなのか、わからなかった。ただただずっと彼女のそばにいたよ」
疲れ果てた2人の間に愛の光が揺れていた。それは消えそうになったり、再び点滅を始めたり、だけどはっきりと終わりに向かっているとわかる。朝方の薄暗い部屋の中で、ふと、そういうことに気がついたりする。
2人のための「結婚」という魔法は、もう消えてしまっていた。
Y君は彼女と別れて間もなく、Nちゃんに出会う。
「うまく言えないけど……それまでの俺は彼女と2人だけの世界にいたんだと思う。だけど、Nと出会って感じたのは、世界はどんどん広がっていく、ってことなんだ」
結婚してからいつだったか、Y君がNちゃんのいないところで私に言った言葉を覚えている。
「今は守りたいものがあるからね」。
やたらまっすぐなその言葉がいつまでも心に突き刺さったままでいる。私はそれをわざと抜かずにいるのだ。
優しくも強い一編の詩がある。
結婚について考えたとき、私たちにきっとなにかを教えてくれるような気がして、ちょっと長いけれど、ここに書き留めておこうと思う。
ハリール・ジブラーン『預言者』より、神谷美恵子訳
「結婚について」
結婚についてお話をどうぞ、とアルミトラが言うと彼は答えて言った。
あなたがたは共に生まれ、永久に共にある。
死の白い翼が二人の日々を散らすときも
その時もなお共にある。
そう、神の沈黙の記憶の中で共にあるのだ。
でも共にありながら、互いに隙間をおき、
二人の間に天の風を踊らせておきなさい。
愛し合いなさい、
しかし愛をもって縛る絆とせず、
ふたりの魂の岸辺の間に
ゆれ動く海としなさい。
杯を満たし合いなさい。
しかし一つの杯から飲まないように。
ともに歌い踊りよろこびなさい。
しかしそれぞれひとりであるように。
リュートの弦が同じ音楽でふるえても
それぞれ別のものであるにも似て。
自分の心を(相手に)与えなさい。
しかし互いにそれを自分のものにしてはいけない。
なぜなら心をつつみこめるのは生命の手だけだから。
互いにあまり近くに立たないように。
なぜなら寺院の柱は離れて立っており
樫や糸杉は互いの影にあっては育たないから。
夕暮れの海辺をY君とNちゃんと散歩しながらなんとなく泣きそうになっていた。
私はこの先結婚するのかしないのか……わからないけれど、もしすることがあったなら、この夫婦のようになりたい。
彼らはちゃんと「それぞれがひとり」だ。だけどおんなじ愛に包まれてる。
いつまでもそれぞれが幸せに満たされ続けて欲しい。
ペニーレインみたいなあの彼女も、きっと今、おんなじ夕暮れの下で幸せに暮らしているような気がした。