記憶というものは、常に上書きされ続ける。だからこそ人は、記憶を愛おしく思い、大切にしようと思うのだろう。
誰にだって、ずっと覚えていたい記憶がある。いつか忘れてしまったらと思うと、怖くなって眠れなくなる。そして、その逆もあることだろう。
私たちは忘れる生き物だ。みんな、それを充分すぎるほど分かっている。だから、日記を書いたり、写真や映像を残したりしたがる人もいる。しかし記憶というものは、繰り返し思い出せば思い出すほど、不思議なことに曖昧になっていってしまう。少しずつ何かが、形を変えてしまう。
小さな頃、私は家族でラベンダー畑を見に行ったことがある。紫色の景色の中で私は黄色のワンピースを着ていた。クラっとする大人な匂いに包まれたあの時の光景を、これまでの人生の中で、何度も何度も思い出してはうっとりし、記憶の中の小宇宙へと旅立った。
大人になったある日、そのときに撮ったと思われる一枚の写真を見つけた。そこに写った私は、ブルーのワンピースを着ていた。
私が大切にして来た記憶は、何度も思い出しているうちに姿を少しずつ変えてしまったようだ。
でも、どちらが本当の記憶かと訊ねられたら、私は何と答えるのだろう。正しいことが、記憶としての正解だとは限らない。
あのとき見た景色、感じた風、匂い、そのふんわりとした甘いものだけが、ぽっかりこの世界に浮かんでいる。それを抱きしめられたなら、死ぬまでの私の心には充分なのかもしれない。
「YUKI FUJISAWA」の服は、「古着に加工を施した服」だ。
いちから自分で服を作っているわけじゃない。これまでの歴史の中で、どこかの誰かが着ていた服に、箔を重ねたり、染めを施したりして、新しい価値のある服にする。言うなれば、服にまた別の人生を歩ませる感じ。
私にとって「服」というものは、恋人に似た友達みたいなものだ。ボロボロになってもう着られないものもあるし、今の自分には必要のないもの、何年もあとに引っぱりだすものもある。浮気だってするし、いらなくなってしまうものもある。でも、その時そのとき私なりに一生懸命に付き合う。
YUKI FUJISAWAの服を初めて見たとき、ズルいなと思った。だって、一着のセーターや、一着のTシャツが持っている今まで生きてきた物語を、今たまたま生きているどこかのだれかの新しい物語へと、軽々と繋げていってしまうのだ。どんどん上書きされ続ける、服の記憶。そしてそれは「古着のリメイク」なんて言葉じゃ全然説明できないくらい、魂がぎゅっと込められていて、私は悔しくてたまらない。