東京生まれの秀才・佳乃と、完璧な笑顔を持つ美少女・叶。北海道の女子校を舞台に、思春期のやりきれない焦燥と成長を描く、青春群像小説。繊細な人間描写で注目を集める新人作家・安壇美緒による書き下ろし長編。
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小学三年生の冬のことだった。
「佳乃。あなた桜蔭受けなさい」
お母さん決めたんだけど、と母の笙子は早口で続けた。
同じマンション内に住んでいる、池内彩奈の誕生会から帰ってきたばかりの宮田は、桜蔭、の意味がわからず、ふーん? と言った。
その日も母は花柄のスカートを穿いていた。儚げな、薄らと赤いチューリップのスカート。
「だから春から塾、行こう」
「何の塾?」
「学習塾」
ふーん、と宮田はチューリップのスカートの横を通り過ぎ、廊下の向こうのリビングへ向かった。誕生日プレゼントのお返しで貰った、ハローキティの蛍光ペンの入った袋をダイニングテーブルの上に置く。
「これ、お返しだって」
「彩奈ちゃんのお母さん、なんか言ってた?」
「なんかって何?」
「受験のこととか、佳乃に聞いてこなかった?」
「発表会の話は聞かれたかも」
リビング横の防音室の扉は開かれたままだった。ピアノ椅子の背もたれに、笙子のカーディガンがかかっている。
仕事後の母は機嫌が悪い。
「佳乃、なんか言った?」
「たぶん言ってない」
「そう。なんにも言わなくていいからね」
あの人、なんていうか、本当に、と、定まらない言葉を笙子は呟き続けていた。宮田はペンの袋をいじりながら、じっとそれに耳を傾けていた。
「音大の成績悪かったくせに、言う事だけ大きいのよね。自分ひとりで回してる教室でもないくせに」
防音室の中のカーテンは、グリーンが基調のボタニカル柄で、植物のツタがうねっているのが、宮田はどうしてか怖かった。
「彩奈ちゃん、桜蔭受けるんだって。佳乃も受けよう」
「おういんって何?」
「難しい学校。入れたらすごいよ佳乃」
お父さんもびっくりするかもね? と笙子が自嘲気味な笑みを浮かべた。
三年生に上がって以来、父に会うのは稀だった。事務所を移転したから忙しいのだと聞かされて、幼い宮田は納得していた。
「お父さんの学校より難しい?」
「そうね、たぶん」
「佳乃、そんなの出来るかな」
「出来る。佳乃なら絶対に出来る」
お父さんなんかよりあなたの方がずうっと賢いんだから、と笙子の白く長い指が宮田の小さな頰を撫ぜた。華奢な身体に不釣り合いな、オクターブを跨ぐ大きな手だ。
それは宮田にも遺伝している。
「桜蔭に行って、それから東大だって入っちゃえばいいのよ。お父さん、いまだにそれを気にしてるんだから」
東大にピアノ科はあるのかな、と宮田は考えていた。それまではずっと、ピアニストになれと母に言われ続けてきたからだ。
夜は手袋、球技は見学。二歳から始めたレッスンを欠かしたことは一度もない。
彩奈も東大のピアノ科に行くのかな、と思いながら、宮田はハローキティのペンを手の甲で試した。ハートを描いて中を塗りつぶすと、日焼けのない肌理に蛍光ピンクのインクが滲む。
彩奈の母もピアノ教室を開いていた。同じマンションの最上階に、彩奈親子は住んでいる。
先に六啓舘に受かったのは宮田だった。
朝、頭の中に流れて来る音楽は、このところずっと同じだった。ラフマニノフの《楽興の時》第四番、ホ短調プレスト。
一昨年のコンクールで入賞した時の曲だ。
頭の中に流れる音楽に合わせ、布団の上で指を動かしながら天井を見つめると、宮田は拭いがたい焦燥に駆られた。
南斗へ来て一週間。こんなに長い間、鍵盤に触らなかったのは初めてのことだった。このままでは、指が動かなくなってしまう。
寮の歓迎会があった次の日、宮田はピアノ教室の見学を入れていた。
「ねえ、昨日のダンス。上手だったじゃない! 私、あの曲気に入っちゃった」
自転車の鍵を取りに寮監室へ寄ると、宮田を見るなり杉本が顔をほころばせた。
「あれ、かなり練習した? みんなでレク室行ってたもんね」
「毎日ではないですけど、夕飯後にちょっとずつ……」
机の端の紙袋から、昨夜の飾りが覗いていた。桃色の画用紙で作られた、ガーベラの花飾り。
「これ、すごく上手ですね」
宮田が紙の花を手に取ると、あら、ありがとう、と杉本が照れた。歓迎会の夜のレク室は、まるでお遊戯会のように手作りの飾りでいっぱいだった。
「こういうの、何か見て作るんですか?」
「ううん、手書き手書き。ただの趣味」
その時、ゴンゴン、と何者かが玄関脇の小窓を乱暴に叩きつけた。宮田が驚いていると、杉本が怪訝な顔で立ち上がってガラス戸をスライドさせた。
「おスギ! 1番のチャリ鍵頼む!」
ブルゾンを着た寮生が、今にも外へ飛び出して行きたそうに苛々と肩を震わせていた。小窓の縁をカツカツと、忙しなく爪で叩いている。
「ちゃんと自分でこっちに回って! 自分で取りなさい」
「頼むおスギ! ホントに歯医者、間に合わない!」
もー今日だけだからね、と仕方なく杉本が自転車の鍵を渡すと、行ってきます! と威勢のいい声が玄関ホールに轟いた。
「早くもみんな生活、雑になって来ちゃって。そろそろカツ入れないと」
杉本は怒っていたが、宮田はいまの子が少しうらやましいような気もした。
どうしてみんな、そんなに杉本に気安い態度が取れるのだろう。
「今日のピアノ教室、合うといいね。宮田さん、東京でも誰か個人の先生についてたんでしょ? コンクール出るくらいならそりゃそうか」
目鼻立ちのはっきりしている杉本は、五十代に近づいてもなお可愛らしさが残っていた。
いつも明るく、陽気に話しかけてくれる大人は、宮田にとって珍しいものだった。
「母が」
「ん?」
「母がピアノの先生だったので」
背が高い宮田は、杉本の背丈をとっくに追い越していた。
「そうなんだ」
杉本は顔色を変えず、それ以上何も聞いては来なかった。
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