音楽をつくることで、架空ではなくて現実的な「理想郷をつくろう」としている。
─仕事や家族のあり方など、変化の多い30歳前後というのは、あらためて「大人としての自分」を見つめ直すタイミングなのかもしれませんね。
永原:このアルバムで、世の中にもの申したいわけではなくて、たとえば葉っぱを拾ったり、お花を見たり、散歩して飲んで笑い合ったり……音楽でそういうことができる場所をつくって、自分の表現を伝える場に好きな人たちをまた呼びたいという気持ちがすごくありました。「葉っぱ拾って、今日は楽しかったね」「じゃあね、バイバイまたね」って。大人になっても、そういうことができたらいいなって。
─たしかに、大人になると時間がなくなってくるから、寄り道したり、無駄な時間を楽しむことを後回しにしているうちに、その価値自体をだんだん忘れてしまうことってあるなと思います。
永原:そうなんですよ!
─それに社会のなかでは、喜怒哀楽を隠して、別の顔をしなきゃいけない場面も多くて、そうしているうちに自分の本当の感情をおさえこんでしまうこともあります。永原さんがおっしゃっている「葉っぱを拾う」というのは、素直な心のままに、泣いたり笑ったり怒ったりする時間を取り戻すってことにも通じるのかな、とも思いました。
永原:怒りということで言うと、今回“僕の怒り 君の光り”という曲をつくったのですが、いらだちの感情を口にするのは、意外とすごく勇気が必要でした。もともと、いさかいにはそれぞれの言い分があるなと考えるほうで、自分の活動においては、「そういう考えもあるよね!」という双方の意見を基にしたスタンスで表現し続けようと思っていました。
でも、そんな生ぬるいものでは、もはや葉っぱは集まらないのではないかと気づいて……。だから今までは「ねえねえ、葉っぱ集めようよー!」というスタンスだったのが、「マジで葉っぱ集めたいんだよー!!」ってキレるっていう。……インタビューがおかしな方向に(笑)。
─(笑)。でも、わかるような気がします。以前、Twitterで「あそんで」とか「楽しく」っていうことを「お気楽と舐められては困る」と書かれていましたよね。
「あそんで」とか「楽しく」とか、腹の底から血を吐く勢いで作っているので、それらをお気楽と舐められては困る。作品には文脈がある。
食とは?労働とは?生活とは?
そしてその中で、音楽とは????
戦う生活労働者たちに捧げるべく、寄り添うべく、最高にノリノリなブルースをつくりました。— 永原真夏 (@manatsu_injapan) 2018年2月13日
永原:ああ、書きました。遊びを甘く見られちゃ困るぞ! っていう。
─永原さんがおっしゃっている「葉っぱを集める」というのは、たとえば時間の流れだとか、世のなかのマジョリティの考え方だとか、一見あらがえない何かに流されそうになっているときに、ふと立ち止まるきっかけをくれるような、ひとつの希望として提示されているんじゃないかなと。
永原:そうなんですよね。3曲目の“あそんでいきよう”という曲は、タイトルからして、「ちょっと待って、あそぼうよ!」という曲ですし。「公園」が好きだというのも、音楽をつくることで、架空のものではなくて現実的な「理想郷をつくろう」ということで、それは生っちょろい気持ちではできない。血を吐きながら葉っぱを集める必要があるんです(笑)。
大事なのは人間の感性だし、それを発する力も受け取る力も、舐めてはいけないなって。
─“ダンサー・イン・ザ・ポエトリー”には、「ポエトリー」という言葉が使われていますが、この曲は楽曲を発表する前に活版印刷の詩を先行公開したり、MVにも歌詞が大きく表示されていたり、言葉にフォーカスしている印象があります。詩や詩的な感覚というのは、永原さんのなかで大切な感覚でしょうか?
永原:めちゃくちゃ大事だと思います。というのも、音楽をやるうえで、私は楽器を弾けなかったんですよ。ドラム、木琴、ピアノ、ギター、トランペット……いろいろ試したのですが、全部うまくならなかった。楽器から自分のイマジネーションを派生させ、技術を向上させることができなかったんです。それでもどうしても音楽がやりたいと思ったときに、自分が音楽を0からつくる方法は詩以外になかった。だからものすごく大事にしているんだと思います。
活版印刷職人・三木弘さんによる“ダンサー・イン・ザ・ポエトリー”の歌詞が、楽曲に先行して公開された。
三木弘さんによる活版印刷の歌詞、小指さんが五線譜に描いたSCORE DRAWINGなどがひとつのギフトボックスに。(通販サイトを見る)
─永原さんの音楽のはじまりには、詩の感覚があると。先日、台湾でライブをされたときも、「言語の通じない台湾のお客さんに伝わるのはやっぱり詩なんだ」といったことをInstagramのストーリーで書かれていたのが印象的でした。
永原:台湾でライブしたときに、はじめは、「你好」とか「謝謝」って言っていたんです。でもなんだかお客さんも私自身もしっくりきていない感じがして。私は母国語である日本語の詩をすごく大事にして、音楽表現をしているのだから、「どうせ歌詞なんてわかりっこないから、私も心を大事にしよう!!」って思って歌ったら、お客さんが「ワーー!」って喜んでくれて。
人に何かを伝えたいときに、言語や文化が違っても、自分が大切にしているものをブレさせる必要はないんだなとそこで気づきました。大事なのは人間の感性だし、それを発する力も受け取る力も、舐めてはいけないなって。
永原真夏+SUPER GOOD BANDの台湾ライブを終えて。
─永原さんが言っている「詩」というのは、完成された作品や、表面的な言葉ではなくて、言葉や歌が生まれるそもそものはじまりにある感情そのものを指しているのかもしれませんね。
永原:そう! 詩というのは、もともと文字が生まれる前から、音楽やハミングとして、ずっとあったものですよね。もちろん作品の側面もあるけれど、人類の歴史上ずっとずっと長く続いてきた、人間の感情の源流にある生理的な現象なんじゃないかと感じていて。なので私はあまり詩を大げさにとらえずに、「感情をポエティックにアウトプットすることも、そりゃ当然あるでしょう?」ぐらい生活のなかでも身近なものとして捉えているんです。