自分を「主婦だから」とは思っていませんでした。(池田)
ー池田さんの句は、「新・台所俳句」とも呼ばれていますよね。<定位置に夫と茶筒と守宮かな>もそうですし、有名な<ピーマン切って中を明るくしてあげた>など、舞台が家のなかである句が多い。
池田:主婦目線とは思っていないけれど、お台所にいる時間が長くて、外の木よりも目の前のパセリのほうがよく知っているわけだから。
ー主婦として家事をしながら、俳句をつくることをやめなかったことには、反抗心のようなものはあったのですか?
たとえばここに登場するピーマンは、食べたらおいしい、きっと普通のピーマンです。でも<ピーマン切って中を明るくしてあげた>ということで、ピーマンから別の世界を見出して、自分が解放されるような感覚があったりしたのでしょうか?
池田:そういうことはないですね。家にいるから、家のものが見えるというだけ。自分を「主婦だから」とも思っていませんでした。
家のなかには、いつも使わない引き出しがあるでしょう? そのなかは、ずっと闇だったということが書きたかったんです。そういうことを、句をつくる、つくらないに関わらず、さんざん考えていたんです。それである日ピーマンを切ったら、ピーマンのなかも、闇だったって気付いたのね。その瞬間に一瞬でできた句です。
ー家にいるから家のなかのものがよく見えて、句のためではなく日々思弁していたことが、俳句をやっていたから句になった。
池田:いつもすぐできるわけじゃないですけど、こういうふうに句ができることも、自分にとっては自然なことなんです。あ、でも「主婦」って言葉を使った句もありました。
<主婦の夏氷が指にくっついて 池田澄子>
佐藤:「主婦の夏」って、主婦はなかなか言えません。自分が主婦であることを客観的に見ている。飲み物に入れようとしたのか、手に取った氷が指にひっついてしまって「あちゃっ」となったシーンが浮かんできます。
SNSの主流は思いを吐露することで、私たちはそれをやりたいわけではない。でもそこから生まれるすごい句も、たしかにある。(佐藤)
ー女性と俳句ということでいうと、短歌は女性の作者も多い印象ですが、俳句はどうなのでしょう? かつては多くの女性は家のことをしなければならない状況にあったので、経済的にも時間的にも、長い文章ではなく短詩形の創作と相性がよいという話を聞いたことはあるのですが。
佐藤:プロとアマチュアの境目が微妙な世界なので難しいのですが、結社の主宰や選者となると男性のほうが多いでしょうか。でもたとえば、カルチャーセンターなどに通っている人は明らかに女性のほうが多いです。
ーいまカルチャーセンターというお話がありましたが、SNSのようなプラットフォームと俳句の親和性って遠からずなのかなと感じたのですが、そこはどうですか?
佐藤:SNSの主流は、自分の思いを吐露することにある気がしていて、私たちはそれをやりたいわけではないけれど、そこから生まれるすごい句も、たしかにあると思いますね。
池田:俳句は全部が作品でなくても、それは作品としての評価とは別のところで、書くことでその人が元気になったり、生きやすくなるのはいいことです。それは「効能としての俳句」ですよね。
だけど本来俳句は、何かのためにつくるものではないわね。だからたとえばコーヒーの写真を撮ってSNSにアップすることを俳句でやろうと思ったら、「どこのお店でこんなコーヒーを飲みました」と伝えるのではなく、たとえば「これを飲もうとしたときにはコーヒーが冷めていた」みたいなことをいかにそうとは言わずに感じさせるか。
佐藤:そういえば私、以前はTwitterにいろいろ垂れ流していたんですが(笑)、澄子さんに「そんなに書いたらもったいない」とたしなめられました。
池田:書くと、書いたと思って満足しちゃうのよね。自分を慰めたり、共感してもらいたいなら書いてもいいけど、いつか作品にしたいなら「言いたい言いたい……」と、とっておいたほうがいいのに~! って。辛くてもせっかく辛いわけだし、辛さを煮詰めればいいのにって思ったのね。
「あ、私こういうこと書きたかったんだわ」って。そうなったときが完成です。(池田)
ーさっきのピーマンの句の誕生秘話に近いものがありますね。
池田:はじめに書いたものが、推敲してどんどん変わっていって、違う句になったときにようやく本心が出てきます。「あ、私こういうこと書きたかったんだわ」って。そうなったときが完成です。
佐藤:澄子さんと、澄子さんの師匠の三橋敏雄さんは、自分が書いたものに驚きたいという気持ちが強い作者ですよね。私もそうです。
池田:<待ち遠しき俳句は我や四季の国>という三橋敏雄の句は、まさにその姿勢が表れていて。「待ち遠しき俳句」をつくっていたら、そこで現れたのが「我」だったと。しかも「四季の国」と詠い上げながら無季俳句であるというふてぶてしさ。
佐藤:「俺が俳句だ」という句ですよね。かっこいい。
池田:そう。でもあくまでも簡単に出てきた俳句ではなく、待ち遠しい俳句が自分なんですよ。憎いよねえ。
佐藤:澄子さんの句で言うと、<未だ逢わざるわが鷹の余命かな>というのは、やっぱり心情を吐露する日記的な発想では出てこない。
だって、なかなか自分がこれから鷹を飼うことはないでしょうし、しかもその鷹がどれだけ生きるかなんて思いを馳せたりしないわけで、この人はどれだけ思いを巡らせるんだろうと(笑)。考えて考えて書くなら、こういう句が書きたいなあ。