たったひとりの監督や役者の変革が、映画を観ている人全員の変革になり、いずれ世界の変革になっていく。(橋本)
ー『東京国際映画祭』で『21世紀の女の子』が初上映された際、舞台挨拶で橋本さんが「言葉にならない涙が出ました」とおっしゃっていました。もしかしたらそれは、さきほどお話しされていたような、まだ見ぬ新しい物語の景色がそこにあったからなのかもしれないと感じました。ご自身の発言がどういう思いからきたものか、お聞かせいただけますか。
橋本:私は男性、女性に関係なく、私たちは人間であり、さらには動物であり、それ以前に神に似たものであるのかもしれないということに思いを馳せることがあります。そうした認識のもとで、いまの時代に「女性であること」がどういうもので、どんな形がありえるのかという真髄のようなものが『21世紀の女の子』のすべての短編で見ることができて、すごくお腹の深いところで共鳴したんです。
特に山戸さんの『離ればなれの花々へ』では、言葉が合っているかわかりませんが、ジェンダーを含むさまざまなカテゴリーが存在しない天界のように思いました。男女に分化される以前の感覚や、神をそばに感じるような感覚を手放さずに生きることは、社会で戦い続けないと絶対にできないことだと思っていました。でも戦わなくても、あらゆるカテゴリーに染まることなく、私は私でいられるという世界が映画で可視化されていて、その衝撃と安心で泣いたように思います。
橋本:この映画にはいろんな安心がありました。映画はやり尽くされたとおっしゃる方もいますが、まだこんなにも新しい世界を描ける可能性があるのだと思いました。観終えた後、『21世紀の女の子』というタイトルから想像していた概念が全く変わってしまって、外に出たら全ての人が女の子に見えたんです。たったひとりの監督や役者の変革が、映画を観ている人全員の変革になり、いずれ世界の変革になっていく。そうした現象の一端を見てしまったと思いました。
山戸監督のおっしゃる素晴らしい映画ができた感動を、私も感じたんです。本音を話せば、撮影は一日だけなので身体の思い入れとしては深くないのですが(笑)、心はとても豊かになりました。「いい映画だ!」という喜びに包まれています。欲を言えば、そうした喜びが全身に行き渡るくらいもっと撮影をしたかった。山戸監督はすべての映画に携わられて、すごく幸せ者ですね。
山戸:……素晴らしい言葉で語っていただき、感無量です。いつだって映画は、嘘やフィクションだと簡単に括られてしまいますが、撮る人たちは真実を映し出せることを本心で信じています。その思いを役者さんたちと共有することはとても難しくて、スクリーンに映され、まなざされるみなさんに、大きな覚悟を背負わせてしまう。それでも引き受けてくださったとき、ひとりの女の子の身体の中に生まれる宇宙はどれだけ大きいのだろうと、畏れ多く感じられます。橋本さんの話される言葉のひとつひとつは、その実感を向こう側から証明されるようですね。
以前、大林宣彦監督と対談させていただいた際に「まだ撮るべき映画は半分しか撮られていない」とおっしゃっていたんです。それはもしかしたら、多くの女の子にとって、思い当たる悲しみがあるのではないかと思います。だからこそ、撮るべき物語がもう半分、残されているこの季節のはじまりが、いちばんエキサイティングに違いないのです。
映画やメディアを通して、2年前くらいからでしょうか、橋本さんが、また違う橋本さんになられているのが、美しいな、と思っていました。そこには、ご自身による格闘があったこと、そうした格闘がご自身の言葉を通して表現されることで、対談を読んでくださる女の子たちが鼓舞されて、新しい闘いが始まってゆくと思います。今日は、すごく心に残る日でした。
橋本:勝手に私が変わっただけなのですが、きちんと人に伝わっていたんだなということがわかって、なんだかすごく、うれしいです。
新しい主人公のための物語を生み出すことで、未来の自分自身が生きる世界を取り戻してゆける。(山戸)
山戸:だれしもが、察することや、和を重んじる文化が求められる中で、空気を読んでしまうと、気を遣ってそのロールをこなそうとしてしまうことがあるのかもしれません。でもそれは裏を返せば、新しい革命的な文脈が語られたときには、そこに乗り込めるチャンスにも溢れているということなんですよね。文脈を、ロールを、物語を、まなざし返すことさえできれば。物語られるべき物語は、必ず語られるべく未来が待っている。自身が物語りたいことがある奇跡的な瞬間には、どんどん新しい語りを生み出し、たとえ物語る力がないと感じてしまう多くの瞬間も、他者によって物語られた文脈を贈り物として見つめ返すことで、未知の己を語り始めることができるはずです。
新しい語りの中で自分の存在を取り戻していくというのは、もしかして女の子にこそ許された抵抗の方法なのかもしれません。まなざす/まなざされるというフレームが、いま物語りながら顛倒するように、まさに物語る/物語られるという営為そのものも、まなざしながら顛倒してゆけるはず。そうして、新しい主人公のための物語を生み出すことで、未来の自分自身が生きる世界を取り戻してゆけるのではないかと、今日お話をしながら、強く思いました。
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