自分が知っていること、体験したことがすべてならば、たとえば「わたしは差別されたことはないから、差別なんて存在しないと思う」と言っているのと同じことでしょう?
川上:そもそも、わたしはどちらかというと漠然と緑子のような気持ちがあったから、おそらくそういうこと(生殖すること)には関わらないだろうと思っていました。でも、これってさ、わたしは自然妊娠だったから相手がいるわけじゃない? そうすると、相手との関係のなかで、こう、恋愛の熱い時期と生殖の行為の見わけがつかなくなってくることもある。わたしはやっぱり一瞬、目がくらんだんだと思います。
―目がくらんだ?
川上:そう。そしてげんきんなことに、パートナーに「子どもがほしい」と言われて、そのときに、なぜかやらなきゃいけない感覚にかられたんだよね……。あれが不思議で。
ひとことで妊娠や出産の欲求と言っても、時期的にも年齢的にも人それぞれです。『夏物語』では、男性側の視点として、「自分の強い精子を自慢したい」と精子バンクに登録する恩田のような人物もいるし、自分自身が精子提供で生まれてきて、消えることのない不安を抱いている逢沢という人もいます。同じ「命」といっても、それが共有される文脈によって、その価値観はまったく違ってきます。
―そうですよね。
川上:わたしの場合は、倫理的には「自分は子どもを産まないだろうな」と思っていたのに、なにかに目がくらんだ、一瞬見えなくなったんです。それは、『夏物語』で、夏子が友達の赤ちゃんを抱っこしたときのあの感じ、それは善さだけで作られた光に一瞬、目がくらむような感覚。それに近いのかもしれなかった。その瞬間を狙って、うちの息子はやってきたような気がします。
―でもその目がくらむことが、いいとか悪いとか、そういう善悪の話ではないんですよね。
川上:目がくらむことじたいは反応だものね。わたしは自分の息子に会えたことは本当によかったし、自分の人生においてこれ以上の喜びはないと思う。何にも変えられない出来事だったと心から思っている事実は変えられない。でもだからといって、それがすべてではありません。
だって自分が知っていることや、体験した価値がすべてならば、たとえば「わたしは差別されたことはないから、差別なんて存在しないと思う」と言っているのと同じことでしょう? 自分が親との関係がすごく良くて、すっごい仲良しファミリーだからって、世の中に毒親がいないことにはならないし。「自分の感じた幸せは、みんなにとっても幸せであるに違いない! シェアしたい!」みたいなの、ありえないですよ(笑)。
当然のことだけれど、自分の体験が、すべてではないです。そして、倫理を問うことも実体験とは別に存在する。自分はこれをいいと思っているけれど、本当にそれが良いのか悪いのか、と問うことが倫理なわけで。
「自分の子どもはせめて自分程度には幸せな人生を生きるであろう」と多くの人は賭けている。
―『夏物語』の夏子は、「子どもがほしい」というさまざまな動機のなかでも、「(自分の子どもに)会ってみたい」という強烈なあこがれに突き動かされていましたよね。
未映子さんの著作『あこがれ』(2015年)のなかでも、血のつながりはあるけれど会ったことのないきょうだいに会いに行く話があって、血のつながった人に「会ってみたい」という主題が続いているなと。
川上:「会いたい」って、つくづく不思議な気持ちだよね。
―そうですね。
川上:「会ってみたいから子どもを生む」というのは、好奇心にしては勇気のいる大きな選択ですよね。でも、『夏物語』の百合子という登場人物が言うように、「自分の子どもはせめて自分程度には幸せな人生を生きるであろう」と多くの人は賭けているんだと思います。だって、わたしたちがいま生きているのも、賭けじゃない?「今日は地震が起きない」って賭けているから、わたしはこんなヒールでここに来ることができる。
―子どもを生むということは、生まれてきた子どもに自身にも「賭け」を背負わせることになる。
川上:そうですよね。「賭け」にもいろいろな側面があると思うけれど、たとえば、もし子どもの身になにかが起きても、親はそれを変わって生きてやることはできません。それは大きいですよね。