「じゃあ、一緒に作ろうよ」という視点。
─相手とともに生きていくときに、誰であっても「~してあげる」と思わないようにしたいです。そう思う反面、無意識に「~してあげる」という心の動きになってしまう可能性もあると感じていて。牧村さんが普段から、そうならないように気をつけていることはありますか?
牧村:とてもうれしい質問です。私が何をしているかと言うと「じゃあ、一緒に作ろうよ」と声をかけるようにしています。
─「一緒に作ろう」ですか。
牧村:映画の舞台になっている90年代はインターネットも一般的でなく、物理的に離れている人々がつながることが難しかったけれど、今ならもっと簡単につながれる。今ならアルジェリアのクリエイターさんや、それこそネジュマちゃんみたいな人とつながって、一緒に服を作れる可能性だってあるわけです。She isも何か作っている人が多いですよね。遠く離れているのに、目指すところが似ている。そういう人たちと一緒に作れるって、わくわくしませんか。
─たしかに。先ほども「物理的に戦う」という話がありましたけど、観念的に「この人に何かをしてあげなきゃ」と思うのではなく、「一緒に作る」と物理的な行為は、お互いが同じ地平に並んでいる状態を生むことなのかもしれません。
牧村:「~してあげる」って一方的で、荷物を背負いこむ感じがあります。でも、一緒に作ることは、どちらかが負荷を背負うことがない。だから、この映画の終わり方に希望を持ちました。手近なところだと言語の壁はあるかもしれませんが、やってみると楽しいですよ。
今回もいい機会をいただけたので、この記事のために、遠く離れているけれど近いところを目指している方々をインターネットで探してお声がけしました。写真は、いわゆる有色人/女性/ノンバイナリーの写真家連盟Authority Collectiveの設立者の一人であるTara Pixleyさん。肩の布は、ペルシャ語で「愛」を意味するeshghという言葉を主題に制作するイラン出身アーティストBahman Bennettさんの作品です。これはアルジェリアのアラビア語ではなくイランのペルシャ語ですが、「愛」という単語はどちらも共通しているそうです。ちょうど中国語でも日本語でも「愛」は「愛」であるように。
─牧村さんが本職とされている「話を聞く」という行為も、一緒に作る感覚が大きいように思います。
牧村:私がこういう仕事をしている理由に、一緒に作りたいという気持ちはすごく大きいと思います。そして、ドメスティックな場所に閉じ込められたくないから、いろいろな場所に行って直接話を聞きたい。芸能の仕事をしていたときに「~してあげようか?」って、上から目線で言われることがよくありました。身体をベタベタ触られながら。それが身近な人だと言い返すこともできないんですよ。いつまでも誰かに閉じ込められていたくない、自分たちで作りたいって思います。
新しい文化で、新しい言葉で、一から自分の世界を築いていく、未来を奪われるような恐怖。
─アルジェリアで生きることを切に願うネジュマをみていて、牧村さんのShe isコラム「生まれた国で、わたしは違法……生き場所を探す女の子たちの群像」で書かれていた「そこでは生まれてないけれど、ここで生きたいと思える場所へ」という言葉を思い出しました。生まれた国で生きたかったとしても、社会の規範に合わせなきゃいけない。社会に納得できないなら、出ていかなければならない。ネジュマは頑なに、アルジェリアでファッションデザイナーの夢を叶えると訴えていました。
牧村:それに関しては「フランスに行くでしょ!」って思ってました(笑)。
クロックワークス:アルジェリアで夢を叶えるという思いは、監督自身の気持ちを反映させたと仰っていました。監督も、90年代にアルジェリアからフランスに移民した家庭で育っています。映画監督だった父の撮影中にテロが起こってしまい、命の危険を感じた。
しかし、監督は18歳と若く、外の世界を知らず、「ここにあるものが自分のすべて」だったと言っています。宝物がつまっていたんだと思います。これからこの国でやりたいことがあったのにという悔しい気持ちと、移住した後も、新しい文化、新しい言葉で一からすべてを築いていくことに大変苦労したそうです。未来を奪われる感じがあったのではないでしょうか。
─90年代のアルジェリアは、生き延びるためには、離れなければいけない国だったのでしょうか?
クロックワークス:当時は、街中でテロが頻発し、ニセの検問で一般市民の命が奪われるなど命の危険がすぐ隣にある状況だったようです。特にこの内戦で最初に命を狙われたのは、ジャーナリストや映画監督、大学教授など情報や知識を発信することができる人。かつてフランス領だったこともあり、フランスに移住する方は多く、監督が移住しパンタン市はアルジェリアからの移民を多く受け入れている実績がある街だったそうです。
─「世界は『ここ』しかない」という感覚は、日本にいてもよくわかる気がします。牧村さんは、ドメスティックな場所を離れてフランスに行かれましたが、行った理由と行って見えたものについて伺えますか。
牧村:行った理由は、単純に恋愛で頭がポワポワしていたから(笑)。社会の構造的に、アルジェリアにとってはフランスが「逃げ場」ですけど、日本の社会が辛い人は多くの場合、英語を勉強して逃げ場を探しますよね。私が育った米軍基地の街にも、「アメリカにさえ行けば幸せになれる」と信じることで外の空気を吸っているような気分に浸っている人たちがいました。でも、何かを肯定するために何かを否定する必要はあるのだろうか? と思います。幸せになったつもりでも、苦しめたものは何も変わっていない。アメリカ的なものに内包されるだけで、幸せになる女性たちの考え方が私は嫌いでした。
だから、英語も勉強したくなかったし、英語以外の言語を学ぶことに必死になって。フランスに誘われたときは、「この運命があったから英語以外の外国語を勉強してきたんだわ!」と思いました。でも、行く前の私は自分の未来が見えていたわけではない。好きな人がいればそれで充分で、何かに依存することで幸せを得ていたんだと思います。
─牧村さんに、そういった頃があったんですね。いまのお仕事ぶりを拝見する限り、ファッションデザイナーになる夢に邁進するネジュマと重なって、とても真摯にやりたいことに向かっている印象があります。やりたいことはどのように見つけたのでしょうか?
牧村:最初の動機は、お金です。お金がないと、二人の関係は「上下」になるんですよ。つい先日も、「カップルはお金がない方が卑屈になりがち」だと話したんですけど、同性でも稼いでいない方が養われている感覚になる。稼いでいない方はお嫁ちゃんになって、媚び出して、稼いでいる方が浮気しだす。異性カップルと、全く同じ(笑)。
だから私は、自分で稼いだお金が欲しかったんです。ベビーシッターや駐仏学校のサポートをしたり、絵画モデルをしたり。いろんな仕事をしました。ネジュマが彼氏に「フランスに行って、私に家事をやらせる気?」って怒るじゃないですか。まさにそうで、相手の顔色を伺って過ごしていると自分のやりたいことができなくなる。稼がないことを否定しているわけではなく、私はそうなりたくないと思ってやりたいことを見つけました。
語学も、そういう意味では見えるものを広げるきっかけになります。言語から受け取れる情報量って全然違って。たとえば、ファッションショーを決行したいと訴える時にネジュマは「défiler」と言います。あれはフランス語で、「ファッションショーをする」という意味でも「デモ行進する」という意味でも使われる動詞。それを知っていると、日本語とはまた違った感覚でセリフを味わえますよね。語学を学ぶことで知れることが増えるし、新しいものを作れるかもしれないし、ネジュマみたいな人と出会えるかもしれないと思います。