モノローグの本音のなかに、「あぁ、この気持ちはわたしもわかるな」というものがひとつでもあったら嬉しい。(綿矢)
―主人公が「おひとりさま」だということもあって、この作品には「モノローグ」が多いですよね。『私をくいとめて』のみつ子は、まわりから見ると一見おとなしいけれど、「モノローグ」にものすごくキレと迫力があると感じました。
大九:読者としては、綿矢さんのキレのあるモノローグは「待ってました!」って楽しく拝読するひとつの要素ですよね。
―以前それぞれのインタビューで、大九監督が「ビビリなくせに不平不満がたくさんある」とおっしゃっていたり、綿矢さんが「たくさんの人が読むことを意識するとどこかきれいごとになってしまいがちだけれど、本音に近いモノローグ」を書いていらっしゃるというお話をされていたのを拝見しました。おふたりが、いわゆる「独白」であるモノローグを大切にされているのはなぜですか?
綿矢:一人称という主人公の視点で小説を書くと、それで話を進めなければいけないので必然的にモノローグが増えるのですが、感情の流れを細かく書けば書くほど、読んだ人がその人のどこかの部分に共感してくれる接点が増えることになります。逆に感情の過程を飛ばしたりすると、登場人物がなにを考えているかわからないので、共感しにくいですよね。
たとえば「こじらせてるな……」「性格が悪いな……」と思うような登場人物であっても、モノローグの本音のなかに、「あぁ、この気持ちはわたしもわかるな」というものがひとつでもあったら嬉しい。そう思って、かなり細かく書いています。
大九:映像化という意味では、ストーリーを展開させるためにかならずしもモノローグが必要ではないこともあるけれど、独白というのは、登場人物の心理描写はもちろん、その人がどういうふうに世のなかを見ているのかがすごくわかりやすいんです。
趣味がなにか? ではなくて、なにが気になるのか、なににちょっとイラッとするのか。そういう「視点」を知れると、急にその人との距離が近く感じる。『私をくいとめて』では、たとえばみつ子が会社でどういう目に遭ってきていて、そこでどんな感情を抱いたか。セクハラに直面したときに、なにか思ったか。その人だけの感情がモノローグには表れているから、その演出にはこだわりました。あとは、わたしのガス抜きですかね……。
―ガス抜き?
大九:綿矢さんが書いてらっしゃることって、「わかるわかる!!」って友達と喋っているような気分になるんです。「わたしの場合はこうだった~!!」っていうことをこれ幸いと主人公に言ってもらうってことを、前作も今作もやっています。
その人があたりまえにその人であることを肯定して、なにがいけませんか? って思いますね。(大九)
―『私をくいとめて』も『勝手にふるえてろ』もタイトルがすごく素晴らしいと感じます。いずれも、そのタイトルが作品内で使われる瞬間が、言葉が難しいのですが「狂う寸前」のようなシーンであることが印象的でした。
綿矢さんは、「自分が小説で書く人よりも、もっと『外れている』人を書いている作品もたくさんあると思う」と以前おっしゃっていましたが、あきらかに「外れる」のではなくても、チューニングがずれていくようなことって、日常であたりまえにあるのではないかと思って。そこをどう調整していくかというのが、生きることなのかなと思ったりもしたんです。「正常であること」と「どこか狂っていくこと」、誰のなかにもあるそのぎりぎりの境界線が、綿矢さんの作品には書かれていると感じて、そのあたりについて思うところがありましたらお話をうかがいたいです。
綿矢:外見や行動では、いわゆる「ふつう」でも、頭のなかで考えてることがけっこうエキセントリックな人、というのはもちろんたくさんいますよね。『勝手にふるえてろ』やほかの小説でも、自分で書きながら、「ここまで考えを暴走させたらひいてしまう人もいるかも……」と思って削ろうとすると、編集者さんが、「これくらい暴走しているほうがおもしろい」と言ってくれて、読む人の許容範囲ってけっこう広いんだなと思うことがあって。
今回、『私をくいとめて』でわたしが書いたみつ子さんは、さっき話したように映画よりももっとおとなしくて、映画のほうが社会への怒りや恐怖、恋人と対峙するときの不安などが伝わってくるなと思っています。『勝手にふるえてろ』のヨシカは、どこかなにかを超越している狂気みたいなものがあったのですが、みつ子の場合は、もしかしたらイノセントな部分、子どものままの部分が大きくて、それが生きづらさにつながっているのかもしれないと映画を観て改めて思いました。ただそれは、悪いことではまったくないんですよね。
大九:わたしは、主人公が狂っているというより、綿矢さんの選ぶ言葉のひとつひとつが、ちょっと魅力的な不健康さをはらんでいると思っているんですよね。
綿矢:不健康(笑)。
大九:一見快活なんだけどものすごい凶暴だったり、独善的だったり、そこにすごく吸い寄せられるような魅力があるんですよね。狂っているということでいうと、そこですかね。
大九:みつ子にイノセントな部分があるというのは、わたしもわかります。わたし以上に、ひとりでいることがほんとうに好きで、楽で、誰かといることが苦痛になってしまった人。だから、他人にも自分にも厳しくなってしまっているし、大丈夫な顔をして生きているけれど、いつのまにか自分の基準を狭めてしまっている。だからこそ、「おひとりさま」で活動できる範囲を広げていくという物理的な行動によって、わたしは大丈夫だって示そうとしているんです。
原作のみつ子は30代で、はじめての恋愛ではないにもかかわらず、あれほどまでに、誰かといることで極端に心が乱れてしまうことは、ほんとうにイノセントだし、ある意味、チャイルディッシュでわがままなのかもしれません。だけど、わたしは、そういうひとを肯定しているんだと思います。なにも嫌じゃありません。綿矢さんの作品に出てきている登場人物が嫌だったことが一度もないのですが、その人があたりまえにその人であることを肯定して、なにがいけませんか? って思いますね。