『勝手にふるえてろ』のヨシカも、『私をくいとめて』のみつ子も、小説よりも映画のほうがより、繊細なのにハチャメチャ度がパワーアップしている。元気をもらえるような女の子たちになっていているんです。(綿矢)
大九:はじめ、『私をくいとめて』はただ読んでいただけだったのですが、読んでいるうちに、もしほかの監督が、わたしと違った理解のかたちでこれを映画にしたらなんだか嫌だな……という気持ちがちらっちらっと湧いてきて、わたしならこういうふうに撮る! というのを、まだ映画にする話がなかったのに勝手に書き始めたという経緯があったんです。
―ご自身の意思ではじまった作品なのですね。
大九:はい。書いてから日活(本作の配給会社)に営業しました(笑)。そういうやりかたをしたのはこの作品が初めてです。『勝手にふるえてろ』でご縁をちょうだいしたことが大きく影響しているとは思うのですが、妙な嫉妬と責任感のようなものがあったのかもしれません。すみません、ずうずうしく……。ほかの監督の方が手がけたら、もしかしたらもっと違った、巨大なハリウッド大作みたいなやつが撮れたかもしれないのに……。わたしのようなものが……。
綿矢:(笑)、光栄です。自分で小説を書くときには、主人公が妄想で喋っている場面が多いのですが、書きながら映像が一緒に浮かんでいるとはかならずしも限らないんです。主人公の考えている世界を言葉ではなく映像としてかたちにすることにわたし自身は自信がありません。
だから『勝手にふるえてろ』のときも、監督はどうやって映像になさるんだろう? って思っていたけれど、完成したものを観てみたら、一見地味な主人公の内面の世界が、ときにはミュージカル調に、ときには群像劇として、ほんとうにカラフルに描かれていてめちゃくちゃ感動しました。こういうふうに大九監督はかたちにしてくださるんだなって。
『私をくいとめて』も、同じ理由できっと映像化しにくかったのではないかと思います。小説を書いている本人からしても、「見せ場」みたいなものがつくりにくい内容だな……と思います(笑)。だけど今回も、のんさん演じる主人公のみつ子の怒りや喜び、孤独、不安みたいなものが退屈もせず、不自然でもなく、色とりどりに表現されていて。
―もともと監督の意思ではじまった映画化ということでしたが、のんさんの演技も、すばらしかったですよね。監督の熱意を現場でどのように伝えたのか、どうコミュニケーションされたのか、気になりました。
大九:まず「脚本を読んでどうでした?」と聞いたら、温泉のシーンをうまくやりたいなとおっしゃっていて、ああいう部分をやりたい人なんだと発見がありました。あのシーンは、みつ子の怒りが表れるシーンなのですがのんさんは怒りの表現に興味を持たれたのかなと感じて、それはこの映画を撮るときのみつ子の人物像に大きな影響を与えたかもしれません。もともとの脚本が、より力強くなりました。
綿矢:わたしが書く主人公は、まわりから見るとおとなしいけれど、『勝手にふるえてろ』のヨシカも、『私をくいとめて』のみつ子も、小説よりも映画のほうがより、繊細なのにハチャメチャ度がパワーアップしていて、観ているとわたしが元気をもらえるような女の子たちになっていているんです。それが、本当に嬉しいことでした。
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