ひとりでいることと、誰かといること。生きている時間の過程でどちらの場面もありえるなかで、ある年齢になると「誰かと生きること」が当然であるというような考えに出くわす場面も少なくないのはなぜなのでしょう。『勝手にふるえてろ』に引き続き、原作の綿矢りささんと監督の大九明子さんが二度目のタッグを組んだ映画『私をくいとめて』において、のんさん演じる31歳の主人公・黒田みつ子は、「おひとりさまライフ」がすっかり板についた女性。そんなみつ子が、ひとりでいることを能動的に楽しみながらも、誰かと生きることや社会との折り合いに葛藤する様子が本作では描かれています。
みつ子の切れ味のいいモノローグに溢れたこの映画。それはたとえば不特定多数に見られていることを意識しながらSNSなどを使うなかで、自分の気持ちが自分でもよくわからなくなってしまう場面も少なくない現在において、自分自身のしたいことはなにか? その人らしさとはなにか? とハッとさせられることともしばしば。「その人があたりまえにその人であることを肯定して、なにがいけませんか?」という監督と、綿矢さんのお話を聞きました。
「おひとりさま」というブームにのっているわけではなくて、自分なりの楽しみを意識している女の子を書きました。(綿矢)
―『私をくいとめて』を観て、主人公のみつ子が直面する社会とおのれの折り合いのつかなさに思い当たる節がたくさんあって、苦しい気持ちになる場面もあったんですけど、同時に、生きるぞ、という力が湧いてくる感覚があって。わたしは2020年の今年、観られてよかったなって思う作品でした。
大九:ありがとうございます。以前、綿矢さんとご一緒した『勝手にふるえてろ』(2017年)のご縁のあと、『私をくいとめて』の小説を読んで、あらためて綿矢さんが20代、30代の女性を描くまなざしと自分の視点がどこかリンクしているのではと嬉しくなってしまって。
綿矢:嬉しいです。
―この作品では、みつ子が「おひとりさま」であるという設定のもと、物語が大きく動いていきます。おふたりは「おひとりさま」をどう捉えているか聞きたいなと思いました。
綿矢:「おひとりさま」って言葉は、『私をくいとめて』を書いていたころにちょうど世のなかに出始めていて、まだ珍しかったんですよね。新鮮な言葉、という感じでした。
そこから時間が経って、いまはたとえば女性が「ひとりご飯」をするのは特別なことではないと感じますが、それが自然なことになっていく過程には、たとえばメディアでは「おひとりさま女子」みたいな言葉を使ってもう少しキラキラした感じを提案していたこともあったんですよね。「おしゃれなバーにひとりで行く」みたいなものとか。
―たしかに、ありましたね。
綿矢:でもみつ子は、「おひとりさま」というブームにのっているわけではなくて、自分の懐具合と相談しながら、ほんとうにやりたいことを自分で現実的に叶えている人なんですよ。自分に素直だから、ちょっと子どもっぽい部分があることも自分自身に隠さない。作品の冒頭で、食品サンプルをつくりに行くシーンがありますが、それをひとりで体験しに行くことを楽しめる人。だけどもう子どもじゃないから、ちょっと大きい実寸サイズの天ぷらをつくるというのも現実的(笑)。そういう、自分なりの楽しみを意識している女の子として書きました。
人は生まれながらのおひとりさまなのだから、人と出会って、うまくいくほうが奇跡だと思いたいです。誰かといることが、デフォルトじゃない。(大九)
―のんさんが演じるみつ子は、とても魅力的な人だと思いました。自分の生活を大切にしていて、綿矢さんがおっしゃっていたように、自分の楽しみやチャレンジを自分自身でつくりだせる、自分の機嫌をとろうと努力できる人。
そんな彼女が、ひとりであることで苦しまなければならない状況が出てきて、それってなんでだろう? と観ていて悩んだし、わたしは自分を「ふつう」じゃないと思わせてしまう社会のほうが問題なのではないかと感じました。この作品を通して、おふたりは「おひとりさま」をどのように描写したいと考えましたか?
大九:みつ子のことを大丈夫だと思いたい、とわたしは強く思いながら撮っていました。だって人はみんな、生まれながらのおひとりさまなんだよ、って考えているからです。ひとりで生まれてきて、ひとりで生きていて、誰かと過ごす時間もあるかもしれないけれど、そもそもひとりでいることは自然のことだし、かならずしも不幸な状態ではない。みつ子自身も、自分を惨めだとは思っていないし、思わないようにもしている。そういう人だと信じてつくっていました。
綿矢:自分の世界を守りたいけれど、社会を生きるなかで守りきれない場面が出てきますよね。だから、自分のことを守るために、つくった味方が、自分自身でつくりだした「脳内A」という相談相手なんです。
映画のみつ子は、わたしが書いたみつ子よりも、もっと自由だなって思ったのですが、大九監督の話を聞いてその理由がわかった気がします。小説を書いた当時は、「おひとりさま」で行動すること自体が珍しかったから、それなりに人の目を気にしたりもするのですが、映画のみつ子はもっと能動的で、もっと解放されているんです。素敵です。
―大九監督は、「おひとりさま」をもの珍しく見たり、「ふつう」じゃないという社会の視線にたいするアンサーのような部分をおもちだったのでしょうか?
大九:わたし自身、いまだにひとりが落ち着きます。自分がひとりでいることをよしとしたいので、異質なものとして見られていることにも、見ることにも、両方自覚をもたないようにしているというか、そもそもそういう自覚をもっていないというか。むしろわたしはひとりが好きだから、無意識で若いときからひとりでいて大丈夫な場所を一生懸命探していました。映画館とか、ひとり旅とか、「おひとりさま」なんて言葉がない時代から、ひとりでいても馴染む自分の居場所をずっと探し続けて、いまに至っていて。
だから、メッセージを発したいというより、人は生まれながらのおひとりさまなのだから、その状態がふつうなのであって、人と出会って、うまくいくほうが奇跡だと思いたいです。家族をもって幸せな人はそれがいいし、ひとりでいるほうが居心地がいい人はそれでいいし。誰かといることが、デフォルトじゃない。何年か前に、映画館に女性がひとりで行くためのハウツーみたいな特集を雑誌でやっているのを見たのですが、そんなことが必要なの……? と、そういう風潮をつくっている社会に疑問をもつほどにはもう図太いですし、わたしはいい歳こいて、みつ子側の人間なんです。それでいいと思っています。
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