体とはままならいものだ。うまくやらなければいけないときに限って失敗する。若くありたいと思っても年をとる。どんなにがんばってもうまくできない。病気になる。そして最後には死んでしまう。
そもそもわたしは好き好んでこのような見た目の、このような能力の、このような体質の体を持っているのではない。近い将来、生まれてくる子供を遺伝子的にデザインすることが法的に認められたとしても、それは両親の意志であって、生まれてくる本人のものではない。体は、それを持っている本人にとっては、引き受ける以外に選択肢がないデフォルトの条件である。
もちろん体があるからできることもたくさんある。喉が渇いたときに飲む一杯の水の美味しさや、楽しい音楽を聴いているときのグルーヴ感、あるいは人と肌を触れ合う喜びを感じることができるのは、間違いなく体があってのことだ。
そうだとしても、体はわたしが100%思い通りにできる何かではない。体は、わたしのものであるようで、同時にわたしのものではない。「ヘルシーである」とは、おそらく、この体の本質的なままならなさに対して、大らかでいられることだろう。ジョギングや食餌療法で解決するヘルシーもあるが、ここで考えたいヘルシーは、体を持つことにまつわる根源的なものだ。
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