我慢ならない言葉がある。
「女らしい」シルエット。「女らしい」色づかい。一匙の「女らしさ」。
気になるのは「女」ではない。「らしい」の方だ。
「あなたらしいね」と言ってもらうときには、よほどの嫌味でない限り褒められていると思っていいだろう。「あなたをあなたたらしめる明確な要素が存在し、それが正しく現れ、あなたがあなたである状態を強化していて、いいね」。私はどう考えても「私」である、と思えるのは素晴らしい。私がきちんと正しく「私」に見えるのなら、それに越したことはない。私は私であるためにひどい目に遭ったり、いやいやながら努力したり、ときには妥協したり、やや盛ってみたり、色々あってようやく私になったのだから。
しかし代入されるのが「女(または男/以下略)」になった途端、この「褒められ」はにわかに不安定になる。「女を女たらしめる明確な要素が存在し、それが正しく現れ、女が女である状態を強化していて、いいね」。
「女らしいね」と言われると何かを取りこぼしているような気になるのは、この言葉の中に「偶然発生した条件を絶対的なガイドラインとし、そのガイドラインを推奨し、条件を満たしているかジャッジし、クリアした者を褒めるニュアンス」を感じてしまうからかもしれない。私の身体はまあ女だけど、だからといって正しく女に見えなければならない道理はないし、偶然この形状に生まれたにすぎないのに。
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服は外界に接触する一番外側の皮膚だ。着用しなければ家から一歩も出られないくせに、面積が広くて、目につきやすくて、文脈があって、その割にイージーだと思われていて、「中身(着ている人間)と一心同体だとは思ってなかったんだよ」という言い訳ができるせいか、気軽にコメントしていいものだと思われている。
うーん、女らしいとも、男らしいとも、ダサいとも、スカートが短いとも、ボディラインが出すぎとも、胸が開きすぎとも、モテ意識してんの? とも、ヒールが低いとも、高いとも、顔や体型や年齢に合っていないとも、言われたくね~。
そう思いながら暮らしていたある日、家の近くのリサイクルショップの軒先に、一枚のシャツが吊るされているのを見かけた。300円で叩き売られた野ざらし状態のシャツには三角形がびっしりとプリントされている。私はそれを眺めながらブックオフで買った『能 道成寺』のDVDを思い出していた。面をつけ替え、着物を一枚脱いだ途端、それまで人間だった女性が「大蛇」という設定になる。着ぐるみを着たわけでも、役者が代わったわけでもないのに、ああ、変身したのだと納得させられてしまう。舞台を立ち去る「大蛇」の着物にはびっしりと鱗文様があしらわれていた。
大蛇とおそろいの、三角形柄のシャツに袖を通す。もっと広い面積をこの模様で覆いたい。古着屋やショッピングモールを回って三角形柄のキュロットとタイツ、スニーカーを買い揃えた。全身を三角形で埋め尽くすと人智を超えた存在になれたような気がする。色もサイズも角度もバラバラだけど、いいのだ。
よし、今日のテーマは「蛇」にしよう。テーマ曲は京都のバンド・騒音寺の“道成寺”なんか、ぴったりではないか。
イヤホンを装着し、おどろおどろしいイントロに合わせて大股で歩き出す。一歩踏み出すたびにあらゆる色の三角形が私に合わせて踊り狂った。
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テーマを決めて、テーマ曲を選定し、その通りの衣装を身につけることは舞台と似ている。
女らしいとか、男らしいとか、ダサいとか、スカートが短いとか、ボディラインが出すぎとか、胸が開きすぎとか、モテ意識してんの? とか、ヒールが低いとか、高いとか、顔や体型や年齢に合っていないなどという、勝手に用意された台本を勝手に書き換え、演目を塗り替え、好きなキャラクターに変身できる。私は日替わりで王子様や、花や、かき氷機や、魔法使いや、絨毯や、不良になった。
舞台衣装にはストックが必要だ。どんなキャラクターにも変身できるよう、素材を集めなければならない。テーマにしっくり来る服をいつでも見つけられるように、一着ずつExcelに入力していく。色、形、柄、それから「何になれそうか」のメモ。
文字に置き換えるたび、服は「私を定義づけようとする驚異」ではなく「好きなものに変身するためのマテリアル」になっていく。
ちなみにこのExcelを見せると時々「大量に服を持っているお金持ちの人」だと思われるが、残念ながら別にそういうわけではない。
新しい街を通ると必ずリサイクルショップを探す。リサイクルショップは「今」の文脈から解き放たれた服が安価で眠る天国だ。全然ロジカルじゃなくて、意外で、流行からてんで外れていて、野放図で、誰かのお気に入りだったかもしれない愛おしい服たち。
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では最新の「モード」と呼ばれるものが私たちの自由な台本に参加してくれない冷たい存在で、身体を服に合わせて矯正しようとする恐ろしい存在かというと、もちろん全くそうではない。
例えば2019年6月、パリでTHOM BROWNEが2020年春夏向けメンズコレクションを発表した。肩を過剰に強調したジャケットを着た男性モデルたち。中には男性性の象徴であるコッドピースをつけたモデルもいる。彼らはパンツの上からクリノリンを装着し、素足にチュチュのようなスカートを履き、顔を白く塗って闊歩する。
これはもしかすると……「誇張された男性像に従わなければならない苦痛の可視化」「実体のない男性性を押し付け合い、そこから脱出したがる者を連れ戻そうとすることへの批判」「ブラザーフッドの必要性」というテーマだったりするのではないか? 男性性という文脈に女性性という分脈をぶつけて無効化を試みたのではないか? さしずめ「一人ミラーリング」ではないのか?
……とはコレクション速報の記事には書いていなかったので、真相はトム氏に直接インタビューしない限り分からない(シーズンのテーマは「My secret garden.」と説明されている)。分からないが、着る人が勝手に妄想したって良いだろう。もしもこのジャケットとクリノリンを購入した暁には、Excelの「なれそうなもの」欄に「秘密の庭、または架空の男性性からの脱出」と記入しようと思う。
毎晩、次は何になろうか夢想しながら眠りにつく。寝坊してパジャマのような格好で家を飛び出す日の方が多いし、髪はいつでもぼさぼさだし、テーマ曲に同じ楽曲を何度も使ってしまうし、同じコーディネートでテーマだけがかろうじて違うこともある。
でもいいのだ。私が「変身できた」と思えば変身できたことになるのだ。まだ見ぬ何かになれるかもしれないという期待に包まれながら眠りたい。明日、目覚めて何に変身したくなるか、今はまだ想像もつかないから。