「白い服は、白いまんま着なあかん」
小さい頃のように、わたしの髪を繰り返し撫でながらおばあちゃんは言った。
「どんな時でも。白い服は、白いまんま着なあかんの」
マスカラの滲んだ涙で真っ黒になった白いワンピースの袖を握って、おばあちゃんはそう言ったのだった。ひどい振られ方をした19になる初夏だった。
涙がひいて、月が満ちて、思い出してまた泣いて、いい加減泣き疲れた頃には、ワンピースもすっかり乾いていた。
それから何度も朝が来て、何度も繋いだ彼の手をなぞった爪の形をとうに忘れた頃にも、おばあちゃんのその言葉は事あるごとに響くのだった。
大切な日には、白い服を着る。それで、気持ちをぎゅうっと結ぶんだ。
いつしか、白い服はわたしの戦闘服になった。“本当はすごく泣き虫な自分”を隠して、“もう前を向いてるわたし”を装ってくれる、戦闘服。
わたしのキャリアスタートはファッション誌のライターだった。流行を追うというよりも、モデルの個性を前面に押し出す雑誌で、作り方も他の編集部とはちょっと違った。
半年が経った頃、巻頭企画のアシスタントについた。コーディネートはスタイリストではなく、モデルが組み、シーンによってはライターが組むこともあった。コーディネートに使う服はライターがロケバスで回って古着屋やブランドに借りに行った。
先輩は、頭からつま先までファッションのAtoZが詰まったような人ばかりで、金髪やピンク色の睫毛、タトゥーまでもが、元からそうなのかと思うくらい身体に馴染んでいた。
このさりげなさは、いつになったら身につくんだろう? と、黒髪を引っ詰めただけの頭で漠然と考えていた。
先輩たちがわたしに教えてくれたのは、ブランドの名前、そのプレスの連絡先やリースの手順、クレジットの書き方、だけじゃなかった。
「Aはガーリーだけど、ライダースは黒しか着ないの」
「BのTシャツは全部古着だから年代とかのこだわりも聞いておいてね」
「Cは足もとをすごく大事にしてるから靴下と靴の組み合わせも書いて」
装いの、目に見える情報だけじゃなくて、目には見えない感性や哲学。それは人を知ること、知ろうとすることの他ならなかった。そして、彼女たちが持つこだわりは、「ファッション」が、ストーリーを秘めて「スタイル」になっていくことを目の前で証明していた。
ここにいる人たちはみんなとても派手で、それ以上に自然に見えていたその理由がなんとなくわかった気がした。
似合うものだけ着るのではなくて、冒険しながら、自分にしか似合わないものに昇華させていく。装いを創造する魔法使いのような子たちだった。彼女たちは、絵を描くように服を選び、音を奏でるようにそれを纏った。心と体は一つとよく言うけれど、心と体と装いがここでは一つだった。
魔法使いたちは、夜のコーデルームやスタジオの待ち時間、時に道端なんかで、その魔法に秘めたるストーリーを聞かせてくれた。
いつかロンドンに住みたくて、UKロックバンドのTシャツを集めるようになったこと。恋人と毎日1本映画を観るようにしていて、次の日はその映画をテーマに服を決めていること。
「1番の憧れは若い頃のお母さんだから、70年代が好き」
「学校が厳しいから、休みの日に自由に服を選ぶのが今一番の楽しみ」
「少しでも強く見られたくて黒い服を選んでる」
わたしもそうだ、わたしもそうだよ。
「強くなりたくて、白い服を選んでる」
おばあちゃんが死んだのは、編集部に入って3年目の春だった。
亡くなる数日前にも来たる夏に着る服を気にかけていた、最後までおしゃれな人だった。
おゆうぎ会の前日に、5歳のわたしを美容室に連れて行きパーマをかけさせたおばあちゃん。クリスマスに可愛い靴下をくれるおばあちゃん。髪型を変えると誰よりも先に褒めてくれたけど、東京から泣き言を吐いたわたし私に「帰ってきたらあかん」と言ったおばあちゃん。
「白い服は、白いまんま着なあかん」
おばあちゃんがいなくなってからも、おばあちゃんのその言葉は事あるごとに響くのだった。
就職の面接、結婚の顔合わせ、出産の退院日、娘の卒園式。はからずも、妊娠が発覚した日さえも。わたしは必然にも偶然にも、大事な時には白い服を着ていた。
いつしか、白い服はわたしの戦闘服になった。だけど、今ならわかる。装いに隠してもらっていたんじゃなくて、抱きしめられていたんだってこと。
弱い自分を隠したくて、強い自分を装いたくて選んだその纏わりに抱きしめられていた。
“本当はすごく泣き虫な自分”も、“「もう前を向いているわたし」を装うわたし”ももろとも、ぎゅうっと。
魔法使いにも、おばあちゃんにも、わたしにも、誰にだって、その背中にはストーリーがあって、目の先にはビジョンがある。to be continuedなわたしたちだ。
思い出とか憧れとか、失敗とか後悔とか全部をわたしたちは装い纏いながら生きている。
おばあちゃんが死んですぐにわたし私は妊娠した。
妊娠がわかった日、銭湯の脱衣所で白いワンピースを脱いで、コインランドリーの洗濯機に放り込んだ。ルーティンの水風呂に入るのをなんとなくやめて、ミルク風呂に身を埋めた。「わたしもうこの子を抱えてるんだ」と、うれしくて、こわくて、心細くて、感動して。ワンピースが回っている間、白い湯船の中で泣いた。裸であることがあんなにも心もとなく感じたのは、初めてだった。
あの時、所在なく洗濯機の中をまわっていたワンピースを着て、あげなかった結婚式の代わりに海で写真を撮ってもらった。娘に初めて浴衣を着せたお祭りにも着て行った。ピアノの発表会にも出たし、今年は家族で海にもいった。to be continuedで、brand-newなわたしたちだ。
人生は続く、過去がなければ成立しない最新をまといながら。
だから、今日もどうか抱きしめて。“これまでの自分”も、“これからの自分"も、残らず、ぎゅうっと。