She isを読んでいるみんなへ
もうすっかり秋だね。
今年の夏は本当に暑かった。なかなか明けない梅雨にじりじりしてたら、あっという間に夏がやって来てさっさと終わってしまった。
そんな短い夏の間に、ぴかぴか光る宝物のような瞬間が少しと、思わず涙を流した悲しいこともあったよ。
残りの夏は、ひたすらにものをつくってつくって、またつくってた。
そっちはどんな夏だった?
他にできることがあるなんてとても思えなくて、気づいたらいつの間にか今みたいになってた。
一日中何かつくってる。
自分が立派なつくり手だという自信は、正直全然ない。
今わたしは、その時々で自分が気になったテーマで制作したものを、好きなタイミングで発表していくという自由気ままな制作活動をしている。
テーマは見事なぐらいバラバラで、「少女性」「架空の大学の読書クラブ」「実際には存在しないバンドのツアー」などなど。
他には、映画館に足を運ぶ人が少しでも増えてほしい、という至ってシンプルな気持ちで始めた、映画に連動した商品制作を細々と続けている。
有難いことに、この頃では時折声をかけていただける機会も増えてきて、続けてきて良かったと思える瞬間がある。
わたしが身を置くこの世界では、技術的なことはもちろんだけど、自分がそこから何を見たか、どう感じたか。そこにどんな色をのせていくか。
そんな感覚的な部分を制作の核にしている。そして時に、自分自身の意見や考えを明確に発信することが求められる。
もちろん、わたしにも伝えたいことはあって、ただ、まだ上手く伝えることが出来てない。
特に「言葉」を使う発信となると、いよいよ混乱してしまう。
この国の政治の状況や地球の未来、などなど大きな問題の前では、自分の主張をしていくことが傲慢に感じてしまうこともあるよ。
実際は、わたしのことなんて誰も気にしてない。
だからこそ思いきって少しずつ表現していけたらなっていうのが、今の課題。
そして、もうちょっと昔のわたしは、今よりもっと弱かった。
そんな時に、映画の中の女の子たちにパワーをもらうことが、少なからずあって、身に着けているものをそのまま真似したりしてた。
改めて映画の話をすることも普段なかなかないし、今日はそんな話がしたいな。
『ラマン』の男物のソフト帽、ブカブカのワンピース
年は15歳半。力強い眼差しの少女が言うには、その男物の黒いリボンがついた帽子は、映画の舞台であるインドシナ(現在のベトナム)のカティナ街のバーゲンセールで買ったもので、大きくだぶついた子どもっぽいシルエットの服は彼女の家政婦がつくったワンピース。ベルトをしめてブラウジングしてる。
テレビ画面に映ったその少女の立ち姿は、まさに完璧だった。
この映画を初めて観た時、確か中学3年生だった。あの頃、午後の退屈な時間帯にブラウン管のテレビでは色々な洋画をやってたよね。カウリスマキなんかもそれで知った。
その頃のわたしは痩せすぎた体をいつもひどく気にしていて、人に体重を聞かれることを怖れてた。平均体重に10キロ以上届いていないのは、スリムという前向きな言葉で考えられるものじゃなかった。似合う服もなかなかない。
小さな頃から好きなものと自分に似合わないものはなぜかはっきりと知っていて、あと足りないのは自分のスタイルというものをどう表現するかということだけだった。
こんなエピソードがある。
帽子が似合わないと思い込んでいた幼い頃、当時入っていたガールスカウトの帽子と、小学校の赤白帽をかぶることを断固として拒否していて、いよいよ逃げられない集合写真や何かの式の時だけしょうがなくかぶってた。この頃の写真を見ると、帽子を片手に握りしめている小さなわたしがたくさん写っていて、今見るととても面白い。いつか見せるね。
その映画の中の少女は、とにかく魅力的だった。年もわたしと近いはずなのに、もう自分というものを知ってる。15歳にして複雑な家庭環境に置かれ、抗うことのできない状況の中でも凛としていて、少しも負けていなかった。
三つ編みの髪に男物の帽子、痩せた体にブカブカのワンピース。完璧にアンバランスで美しかった。
見た瞬間、貧弱な体でもパーフェクトになれると確信したのを覚えてる。この完璧なアンバランスさという感覚をうまく説明することができないんだけど、身に着けるものを選ぶ時に、その感覚は今でも大事にしてる。
オーバーサイズのトップスを好んで着るようになったのは、この時から。
メンズライクな服にひとつフェミニンなアイテムを入れるようにしているのも。
この映画について思い出す時、一番最初に頭に浮かぶのはいつも茶色のメコン川を船で渡っていく彼女。そうすることができない14歳のわたしの代わりに、「自分らしさ」を身に着けて人生を颯爽と渡っていく姿だ。
『汚れた血』の真っ赤なカーディガン
ヒロインに向けられる熱い視線を、男の子だけに独占させる理由はないよね。
レオス・カラックスのアレックス三部作のうち、飛びぬけて『汚れた血』に惹かれてしまうのはどうしてなんだろう。きっとこの先もずっと見続ける特別な映画。
その訳はきっと、そう。
愛のないセックスで感染するという「STBO」という病気の果てしないロマンチックさ。
アレックスと一緒に駆けださずにはいられない、デヴィッド・ボウイの“Modern Love”。ジュリー・デルピーの人間離れした美しさ。
そして、ジュリエット・ビノシュが演じるアンナの赤いカーディガン。
薄暗いパリの路地で、その赤だけが信じるに値する確かなものみたいで。
即座にアンナに心を奪われるアレックスに引き換え、アンナの目はまるで何にも関心がないように見えた。
アレックスと同じように、アンナの真っ赤なカーディガンが忘れられなくなったわたしは、その特別な服に似たものを探しに街をうろついた。普通の赤じゃない。かなり真っ赤だった。
全く同じようなものは見つからなかったけど、近いものを見つけてしばらく気に入って着てた。
何年ものち、柔らかな素材であるニットというものが似合わないということに、ある日突然気づいてしまい、それ以来赤いカーディガンは一度も着てない。
あの時のわたしは、誰かの「運命」になってみたかった。
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