She isでは、特集テーマをもとにGirlfriendsに選曲してもらったプレイリストをSpotifyで配信中です。7・8月の特集テーマ「癒やしながら」では、自らが癒やしを感じる曲を9人のGirlfriendsが教えてくれました。
耳から入ってくるさまざまな音によって、心が穏やかになることも、浮足立つことも、ときにはいらだつこともあるくらい、音が心の状態に与える影響は大きいもの。ヒーリング・ミュージックという音楽のジャンルも存在していますが、そのときの自分の気持ちにぴったりと合って、音と自分が溶け合い共鳴するような曲が聴こえてきたときに、人は癒やしを感じるのかもしれません。Girlfriendsが挙げてくれた曲も、風景が目の前に浮かぶような曲から、自分自身を解放してくれる力強い曲まで、さまざま。このプレイリストが、自分にとっての癒やしのプレイリストをつくる機会になったらうれしいです。
01:Frémeaux Nature “Kenya: Masai mara, de nuit au mois d'août”(ソノダノア)
家で過ごす日に降る雨が好きだ。
癒しというものついてその実あまりよくわかってないのだけれど、雨が降っているときは家の外がもう一層の水の膜に覆われて一段階深く守られているような感じがするし、聴覚が雨音の律動に心地よく支配されて頭の中の声も心なしか静かになる。ような気がしている。
フランスのレーベルFrémeaux & Associésから出ているフィールドレコーディングエンジニア Bernard Fort による静かな雨をテーマに編まれた一枚『La pluie』の中でやや異質な趣を醸しているトラック7をセレクト。電子信号みたいな鳥の声とそのむこうにしんしんと静かに降っている雨の音。はじまりからおわりまでただそれきりの5分51秒。8月の夜のケニア、雨のマサイ・マラで聞こえる音なんて逆立ちしたって想像もつかないことなのに私の部屋で鳴っている。窓際に置いたJBLの青いスピーカーを通して、爆ぜんばかりの蝉の声と溶け合って。
同レーベルから出ているサラウンドスケープシリーズ群はどれも本当にすばらしく殺伐としがちな生活のルーティンにしばしマインドエスケープの風穴を開けてくれる。
夜明けの熱帯雨林、野鳥のさえずり、沢のせせらぎ、虫の倍音、ゴリラの息づかい、むらがる蝿の羽音、波のさざめき、氷山の唸る音、遠くの雷、農場に反響する鐘、祝祭の馬車行列。
晴々として旅に出ることを夢見る日々にて。
02:Meitei “池”(後閑麻里奈)
身体の中で鳴り響く音と耳を伝って聴こえてくる音楽が共鳴した瞬間に、心の奥底から自然と湧き上がってくるような感覚がとても好きだ。
水田が広がる場所で育った私は、夜になるとよく外へ出て虫たちの声を聴き、暗闇を照らす月を見上げていた。夜の静寂に包まれ、自然が織りなす美しさと畏怖の網目に揺られている感覚が、とても心地よかった。今でも原風景となって心に焼きついている情景を思い出すたびに、ありのままの自分に戻れるような、そんな気持ちになる。
特に何もないと思っていたあの場所も、よく耳をすませばいくつもの音が層になって共鳴していた。
Meiteiの池は、幼い頃に感じた純粋な月と水との対話を呼び起こし、あの時の感覚に戻ってゆくような感じがする。そう、身体から染み出していくような、溶けていくような感覚、そして静寂の中に潜む気配や匂いの漂流に身を任せるあの感覚。水の滴る音、遠くで鳴く虫たちの声はわたしの中でいつの間にか当たり前のようになり、同時に失われつつあるようにも感じる。懐かしさもありながら、ただ思い出に浸り、影のような虚無感だけを感じないのは、どこか新しい異次元のような感覚が垣間見えるからなのかもしれない。哀愁と新鮮さの狭間のちょうどいい距離感。どちらに傾くでもなく、バランスが良い。ありのままに戻ってゆく。でも、それはただあの懐かしい過去に引き戻されるのではなく、今というこの瞬間、わたしの目の前にその気配を感じさせる。
03:本日休演 “眠れぬ夜の会”(砂糖シヲリ(チーム未完成))
ほんとはもっと昔の、全然べつの曲を紹介するつもりだったんだけど、Spotifyでたまたま流れてきたこの曲が、なんだか今の気分にぴったりだったので。
今の私の気分というのは、コロナのせいなのか、色んなことが上手くいかないな〜なんか気持ちが焦るな〜社会が分断されて悲しいな〜情報過多でうるせえな〜という感じです。
本日休演は京都で現在活動しているバンドで、鈴木慶一さんやくるりの岸田さんも絶賛されているんだそうです。というのは全てインターネットで知りました。音楽との出会い方も随分変わりましたね。けれど、京都のまちや人の空気感とか、そこから生まれる音楽だったりっていうのは、そんなもんにも流されず、昔から変わらない独特な雰囲気がずっと漂っているような気がします。それを体現しているというか、自然と溢れ出ちゃってるようなバンドだと勝手に思っています。
好きなものとの出会いは偶然と必然とタイミングだと思うのでぴん! ときた方は是非聴いてみてはいかがでしょうか。
04:Arlo Parks “George”(つめをぬるひと)
私は春の陽気のような曲よりも、秋冬や夜明けのような、ほんの少し憂いを感じる曲のほうが好きで、そういう曲を聴いていると、自分の思考に深く入り込めるような気がしている。それは癒やしなのか? と思われるかもしれないけど、物思いにふけったり浸ったりする行為は、自分自身を健全にするためのもので、癒やしだと感じているので、そのための曲はプレイリストにどんどん追加している。この曲もそのうちの一つ。朝でも、夕方でも、深夜でも聴ける。途中の感傷的なギターソロもたまらない。
05:Lady Gaga “Hair”(燈里)
私の父の髪はアフロです。遺伝で私もうねりの強い大きな髪を受け継ぎました。ただ、学校で癖毛を理由に虐められて以来、誰からも笑われない、完全な直毛に憧れるようになりました。強烈な縮毛を直毛にすべく、4か月毎の縮毛矯正に8時間と2万円を使い、さらにストレートアイロンで髪を延ばすようになります。他人との些細な違いを恥ずかしく思い、化学薬剤と熱を使って自分の髪を傷めてきました。不健康な被虐的傾向があり、自傷し自分自身を攻撃していました。
2016年8月に大学の考古学の授業でギリシャを訪れました。Verginaという地域で調査をした後、Posidi海岸でキャンプ生活をしながら、調査結果をまとめ発表の準備をしていました。作業が一息つくと、皆当然のように海に向かいます。私は水着を持っていませんでしたが、友人達に手を引かれるまま、服で恐る恐るエーゲ海に入りました。散々嫌悪し傷付けてきた私の体がまるまる海に受け入れられたような解放感がありました。近くで水に浮かぶギリシャの友人達を見回して、皆真上を向いて笑う癖があることに気付きます。水音と混ざり合う笑い声、光が染み込んだ肌、夕日が反射して燃える目、水に投げ出された手足、そして、海に揺らぐ波状の髪。考古学博物館の古代ギリシャ彫刻に彫り込まれた、あのウェーブ髪の文様。
どうして忘れていたんだろう、私も同じあの波の髪を持っていたんだった。なぜ自らストレートへ矯正したんだろう、うねりも歪みも流動性も私の自然な姿だった。本当は変わりたくなかった。失って思い出せなくなった自分の欠片を他者の中に見出し、発掘する過程が私を癒やしました。
2014年8月、私はレディー・ガガのArtRaveツアーにいました。会場の千葉マリンスタジアムの屋外ホールは太平洋が目の前で、海がガガのステージや衣装のモチーフとなっていました。ガガが“Born This Way”を歌った時、海からの暖かい潮風が強く吹き抜け、汗と涙を拭っていった瞬間をよく覚えています。ガガは虐めと性暴力と精神疾患を経験し、そのトラウマから回復する過程として音楽活動や社会運動に献身してきました。ガガの傷を知ってから彼女の音楽を聴くと、「癒やし」というテーマが立ち上がります。
「癒やしを感じる音楽」として、レディー・ガガのアルバム『Born This Way』から“Hair”を選びました。この曲はゆっくりとしたピアノの旋律で始まり、ガガが子ども時代を回想する歌詞から始まります。<私がイケた服を着る度、両親に叱られる / 私がホットにキメれば、夜母が私の髪を切る / だから朝になると私らしさが欠けている / 私は怒鳴る、どうして私がなりたい自分になってはいけない? なりたい>そして曲調はアップテンポのダンス音楽へと劇的に変わり、クライマックスでガガは宣言します、<私は髪だ。私は髪のように自由だ。髪こそ私の栄光>この歌のタイトルの「髪」はアイデンティティの象徴です。その「髪」を受け入れることは、自由と解放の究極の表現方法だとガガは力強く歌っています。
1年前に縮毛矯正を止めて生まれつきの縮毛を伸ばし、縮毛に合った方法で髪をケアし始めました。私の傷んだ髪、そして私の傷付いたアイデンティティを自分で修復しようと決めた時、レディー・ガガの“Hair”はその決意を何度でも肯定してくれる解放と癒やしの曲です。朝、鏡に映る髪を見つめて口ずさみます、<もううんざり、私はこの髪のように自由に人生を生き抜きたい>。
追伸:“Hair”の演奏の中で、Eストリート・バンドのクラレンス・クレモンズが吹くテナーサックスの対旋律も聴きどころです。
06:吉田美奈子 “恋は流星”(櫻子)
楽しかった日も、そうでなかった日も、眠りにつくまえのひとときに、
10分ほど窓辺やベランダから、夜風に当たりながら、遠くを眺めて今日1日を整理する。
マインドフルネスや瞑想が流行っている昨今、私の1日の最後のルーティンはただ外を見つめることだ。
そんなとき、最近は必ずと言っていいほど、吉田美奈子“恋は流星”を聴いている。
吉田美奈子さんの豊かに響く歌声が私をどこまでも遠くへ連れていく!
心地良いあっという間の約7分。アレンジは山下達郎さん。
ひんやりとした夜風が吹き抜けるように心も体も貫きながら、澄み渡る曲。
相反する感覚だろうけど、漂いながらも、駆け抜けていく、まるで空中遊泳をしながら世界中を見渡している気分に浸る。
夜明けに差し掛かる深い時間に聴いた日には最高だ。静かな町が、その7分の間にすこしづつ明るさを帯びていく。
その景色を目にしていると、明るくなる世界と自分が同化していくような錯覚を起こして、
すべてがたまらなく愛おしくなる。どんな一日を過ごしたとしても、たちまち私は癒されて……
様々な困難が訪れても、できれば誰しもが欠けずに、いつか傷は塞がり、歓びは穏やかに根づくようにと
……そんなことを祈りながら寝床につくのだ。
07:Mr. Children “妄想満月”(枝優花)
夏になると夜に散歩をしたくなる(言いつつ年がら年中散歩してるんですが)。
日中のうだるような暑さが一変して、夜風が涼しく虫の声が聞こえて、近所でビール片手にふらふらしたくなります。いや、してます。
そんなときに聴きたい一曲が、Mr.Childrenの“妄想満月”。
満月の夏の夜の公園。偶然隣のベンチに座った女の人に、ほんの一瞬恋をする。たった3分間の短い妄想。
メロウな音に、軽快でゆったりとしたテンポ。
冷静に聞くと本当くだらない男の妄想。ばかだなあ、生きててそんな妄想一回もあたしゃしたことがないですよ、と思いながらもついつい「かわいい」と思って聴き入ってしまう。
ちなみに曲中3分間、女の人との会話は一切ない。ただただ素敵な女の人との膨らむ妄想を描いている。
この曲の輝きは、会話がない故の視覚情報や状況説明の秀逸さにある。そしてクスッと笑える遊び。
<隣のベンチに君が座って。風が吹くたび、素敵な香り>
肌をかすめる夏の夜風。香りがするほどの距離感。これだけで何かドキドキする。
<君が飼ってる大型犬が俺に吠えてる。何もしていないのに>
会話はないが、相手の飼い犬にすら受け入れてもらえない現実。そこから、この彼がそもそもこの女性と発展はありえないことがわかる。直接的でないからこそ、余白があって、おしゃれ。
そして最後にきちんとしたオチ。
<男の方へ君は駆けてく。彼氏なのかな? ただの友かな? 名も知らぬ君>
彼のなかで、盛り上がるだけ盛り上がった妄想。けれど結局、名前すら知らない女性は、男性の元へ行ってしまう。
夏夜の軽い失恋。
夏夜は何が起こるような予感をさせる。忙しくて余裕のない日々だからこそ、夜に散歩をしたくなる。まあ散歩できないときはこの曲に癒されてる。簡易的に素敵な夏夜を過ごせる気がする。寝る前とかに聴いてみたら良いかんじですよ。
ちなみに常時、散歩友達を募集してるから、なんかいいかんじの時間を誰か過ごそうよ。適当すぎるか。いや〜切実! 誰か連絡をちょうだいな!
08:美空ひばり “愛燦燦”(吉野舞)
お味噌汁を飲むとなんだか「ほっ」としません? 味噌の中に、人の心を穏やかにしてくれる多くの成分が含まれているせいなのか。日本人の心が癒されるよう、DNAに刻まれているのだと思います。これと同じように、美空ひばりの歌を聴くととても落ち着くんです。
美空ひばりといえば、昨年紅白にてAIとして蘇り話題に。もうすぐ教科書に載るであろう昭和を代表する歌姫です。私はこの曲のここが大好き。“愛燦燦”の最初、ハーモニーのイントロから美空ひばりの声が入るところ。歌詞の<人は哀しい 哀しいものですね それでも過去達は 優しく睫毛に憩う>のところも。どんな人生を歩めばこんな美しい詩が書けるようになるんでしょうか。父とカラオケに行くとよく歌ってくれるのですが、やっぱり美空ひばりの声じゃないと、あの豪華な衣装じゃないと、胸に沁みてこないんです。この曲を歌っている私も含め、周りの人を見てみると、本当に気持ちが良さそうで、絶対に頭の中には美しい日本の情景が浮かび上がっているんだと思います。不思議なものですね、私たちはひばりの歌で失われた日本人の心を思い出しているんでしょうか。
ちなみに、この曲は某企業CMのためにつくられたもので、初めは美空ひばりが歌っていると公表されずに放映されて、その声からすぐに美空ひばりだと認知され、画面上でもクレジット表記されるようになったんだとか。これは美空ひばりの歌唱力を裏付けるエピソードです。
みなさん、疲れた時は食事、睡眠、「美空ひばり」で癒されましょう。
09:青葉市子 “コウノトリ”(楠田ひかり)
癒やしはなにか特別なときではなく、沸きあがる湯をただ待つような名もない時間に得られるものだと思う。
青葉市子『マホロボシヤ』所収の“コウノトリ”からは、やかんの湯気が噴き出す音がかすかに聞こえてくる。これからやってくるなにかを待つ音が、シンクにぼつ、ぼつと滴りおちる水のようなピアノと一つの曲を成す。すりガラスの窓からおぼろげな光が差し込むだけの暗い部屋。蒸気が窓をいっそう曇らせている。その光景は私自身が見たものなのか、なにかで読んだ場面なのか、いつどこのものかわからない記憶として目に浮かぶ。“コウノトリ”を聴けば、いつでもこのぼやけたガラス窓の部屋に行ける。
今年の4月に引っ越してから2か月のあいだ、つねに感じる居心地の悪さから体調を崩し、ほとんど横になって過ごした。まだ私の居場所にすらならないうちに、このたった一つの部屋には、大学の授業や研究、バイトという公の場が流れ込んできた。はじまりも終わりもなくなって、物事が切れ目なくつづいていった。
明日に向けて待つ場所だった部屋はもうなくなって、今はこの部屋ですべてがおこなわれている。だから私はやかんの湯気に、なにかを待つだけのガラス窓の部屋に連れていってもらわなければいけない。