スプーン曲げのかたちを見せ合ったり、手をつないでUFOを呼んだり。超能力を使う女の子たちの学校生活の、ときにほのぼの、ときにドラマチックなシーンを漫画やイラストでまばゆく切り取るいとうひでみさん。いわゆるSF的な「超能力」を使える人は現実にはそう多くないかもしれないけれど、いとうひでみさんが描く情景を甘酸っぱく、あるいはほろ苦く、鮮やかに懐かしく感じる人も多いのではないでしょうか。
それは、学校帰りに寄り道したり、自転車で街の外にどこまでも漕いでいったり、恋みたいなものを知ったりする感覚に似ている。さまざまな10代のシーンが存在し、すべてを想像しきることは到底不可能ですが、それでも幸福なことも苦しいことも含めて大人には知られたくないこと、自分や自分たちだけになら教えてもいいよってこと、そういうあの日々のわたしやわたしたちを守っていた努力の結界は、ある意味、スーパーパワー=「超・能力」だったのかもしれません。
不思議な能力を持つ女の子たちは、わたしたち自身。そんなふうに思える絵を描くいとうひでみさんに、今月の特集「自分らしく?」について絵と言葉を寄せていただきました。
時間を重ねて出来上がってきた「自分らしさ」も大切にしつつ、新たな「自分らしさ」を歓迎できるだけの余地を持っていたい。
・特集「自分らしく?」のテーマをどのように解釈しましたか?
「こんなところが自分らしい」と思っていても、それがひっくり返るような出来事があったり、大人になった今でも全く知らなかった新しい自分を発見することもあります。
「自分らしく?」の「?」はそんな自分らしさにまつわる揺らぎの部分をちょっと客観視しているような、余地のイメージです。思い込みに囚われたり、自分自身が作ったルールで視野を狭めないためには余地が必要です。
時間を重ねて出来上がってきた「自分らしさ」も大切にしつつ、新たな「自分らしさ」を歓迎できるだけの余地を持っていたいなと、今回このテーマを頂いて思いました。
今まで気がついていなかったけど、輝く光は自分の中にあったのだ。
・作品に込めた思い、考え方は?
今まで気がついていなかったけど、輝く光は自分の中にあったのだ、というイメージを描きました。
いつかここではない場所へ行くための手段、大人には知られたくない密かな楽しみ、言語化できない部分を共有できるコミュニケーション手段。
・超能力を持つ女の子たちを描くのはどうしてですか? 喜びや苦悩、現代において、超能力を使おうとする女の子を描くことで見えてくる、新しい風景があれば教えてください。
いつかここではない場所へ行くための手段、大人には知られたくない密かな楽しみ、言語化できない部分を共有できるコミュニケーション手段……そういった憧れの要素と、私が学生時代に抱えていた鬱屈とした思い(何だか全て上手くいかない、夢中になれる何かが欲しいけれど、それが何なのか分からない)がないまぜになって現れたのが「超能力と女の子たち」なのだと思います。
新しい風景というか、描いてみてむしろ(私が気にかけていることはずっと昔から変わっていないのかもしれないな)と再確認してしまった感じです。
漫画『class X』では私の理想の連帯の形を描いているとも言えます。
・いとうひでみさんは、能力を用いる「女の子たち」を描かれていらっしゃいます。そこには個人に寄り添いながらも、女の子たちが「連帯する姿」を感じる部分があるのですが、女の子が手を結ぶ姿を描くのはなぜでしょう?
漫画『class X』では私の理想の連帯の形を描いているとも言えます。
一人一人違いがあっても緩やかに認め合い、同じ目的を持ったタイミングで協力し合って大きな力を発揮するということです。
彼女たちが手を結ぶのは、同じ気持ちでいる時、同じことを願っている時です。
ずっと一緒には居られなくても、(あの時確かに心が繋がっていた)と思える瞬間が存在したなら、人はその先も生きていける……今回の質問を受けて考えてみて、そういったことを描きたかったのではないかと改めて気がつきました。