ここと、あそこ。hereとthere。エレン・フライスと私の交流は、彼女がパリに住んで『Purple』を編集し、私が東京に住んで『花椿』の編集部にいたころからいつも、距離を前提としていた。年2回、私はその距離を飛び越えてパリに出張に行っていた。90年代のパリ・コレクションのシーズンだ。
距離を飛び越えたところに、友達がいるというのはワクワクすることだと、はっきり自覚するようになったのは『流行通信』で「エレンの日記」の翻訳連載を始めた2000年の始めごろだっただろうか。そして私は『here and there』という不定期刊行の雑誌をつくり始めた。題名の名付け親は、エレンだった。
Parallel Diariesの題名はエレンの提案により、Tumblrをつかって始めた二人のblogプロジェクトであった。二人とも気ままにポストをしたけれど、いつしか立ち消えてしまった。その時エレンは南西仏の村の一軒家に娘と住み、私は東京の谷中に住んでいた。いま、私は息子とロンドンに住み、エレンは変わらずその一軒家に住んでいる。
コロナウイルスによるロックダウンの生活が始まって、エレンの正直な声を聞きたくなって執筆に誘うと、エレンは「一緒に書きましょう」と言った。二人の間をメールで行き来した並行日記は、その日の気分の上澄をすくいとり、私たちのすごした季節の感情を映した。
2020年8月7日(金)
ナカコ 8月7日(金) 8:00 Tokyo
今週のはじめ、息子が17才になった。彼の誕生日に私は、「自分の魂の目的を知る」ためのワークショップに参加していた。占星術師のファシリテーターに、家族の夢を調べてくるように言われ、父や母、祖父母の叶わなかった夢や、家族の歴史を調べていた。同時にこの一年間、私たち家族に訪れた変化についても考えていた。息子と私がロンドンに住み、夫は日本で二人を支えることになったのだ。一年前、息子の誕生日に私はとても悩んでいて、一年後にどうなっているかはまったく想像ができていなかった。すべては昨年の8月下旬からバタバタと起こったことだった。
いろいろ調べると、父は母と結婚するために学業をあきらめたことがわかった。私は人生上の急変によって、ロンドンの大学院で学ぶことになった。これは父の果たせなかった夢に関係があるのかもしれない。
エレン 8月7日(金) 16:00 Saint-Antonin-Noble-Val
外は38度。外出の予定はないので、外に出ないことにする。今朝、書斎に大きな棚をつくるために大工が家にやってきた。9月には、2008年にパリを離れたころからまだそこにあった文学、アートや写真の本を受け取ることになる。そのために準備をしなければいけないが、書斎には空きがなかった。できたばかりの棚はまだ空なので、変な感じがする。
昨日は家の近くの小さな村にある書店に行った。とても感じのよい古本屋だ。その店を営むミッシェルは、友達の友達だ。彼はマスクをしていなかった。800ユーロの罰金を取られるかもしれないし、店を閉めなければならないかもしれないリスクを犯しているのだ。そこで、私は1960年の日本のガイドブックを買った。白黒の美しい写真が載っている。私もマスクをしていなかった。
この間の日曜日はマーケットに行って、魚を買うために行列に並んだ。隣に老婦人がいたので私は尋ねた「ごめんなさい、私はあなたに近寄りすぎていますか?」。すると彼女は言った「私たちはもう近寄ることも、触ることもできない。自殺するしかないね」。
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