何かに実際に対峙したとき、押し寄せる感情やひらめき以外に、それらに満たない「こんなもんか」とか「こんな感じなんだ」って一瞬が誰にでもある。そこにこそ生きている匂いがするから、逃したくないと思う。(伊藤)
―オカダさんも伊藤さんの歌集をご覧になられたそうですね?
オカダ:歌集を読み通して、ファンレターみたいな気持ち悪い感想を送ってしまいました(笑)。伊藤さんの作品って、わかるようでわからない部分があるんです。私もよく使っている言葉のはずなのに、組み合わせ方によって不思議な現象が起きていて。あんなにも短い文章なのに、一生の一瞬一瞬を閉じ込めたようで、すごく感動しちゃいました。「この人は本当に生きていて、この詩を書いたんだな」って。デザインもすごく不思議で、素敵で。
山田:私はいま、二人が良いって思い合っていることに感動しています。
オカダ:今回こうして紹介してもらえて、すごく嬉しいです。
伊藤:私、感動するポイントが人と違うことが多くて。それが、どれだけ伝わらないかというと、たとえば、人がバッグからMacBookを取り出す瞬間がめちゃくちゃ好きなんですよ。
一同:おお……!
山田:なんでなんで?
伊藤:MacBookが、仕事道具としてその人の生活に当たり前に馴染んでいる感じが、外付けの脳みそみたいに、身体の一部としてテクノロジーを使っているように思えて。なんでもない会話をしながら、MacBookを取り出しているところを見かけると、「わー、この人生きてるな」と思っちゃうんです。
この感覚って私はすごく伝わると思ってたんだけど、どうやらあんまり分かり合えないみたいで(笑)。由梨ちゃんが言っていたみたいに、大きなドラマだったら見逃しちゃうようなポイントに対する感覚が人と違うあまり、その感動を残しておきたい気持ちが強すぎて。それを表現するのに短歌っていう媒体が一番やりやすかったのかなと思います。
―短歌が一番適していると思うのはどうしてですか?
伊藤:短歌って、そもそもの性質としてそういうところがあって。昔から新聞に短歌の欄があるじゃないですか。なんでそういうものが設置されているかというと、新聞って大きな事柄を扱うメディアですけど、その中で絶対にこぼれ落ちちゃう人間の小さい感情があって。そういうものを拾うのに、短歌がすごく適しているからという話を聞いたことがあるんです。
たとえば震災があったときに「何人亡くなりました」とか「こういう状況になっています」という情報を新聞は伝えるけど、「被災地の海に、誰かのアルバムが落ちていて、そこに震災前の日常が写っていた」というような情景って、新聞では書けない。それが短歌だと、ほんの31字の中で物語をつくることができるし、短いからこそ、その中に世界をぎゅっと凝縮することができるんです。
山田:私は登場人物を書くときに、「怒り」とか「喜び」みたいに、簡単に言語化できない感情を書きたくて。いろんな感情が重なった、割り切れないような状態ってあると思う。でも、うまく言えないからこそ、舞台上に現れる必要があって。そういう感情を見つけたときに、その状態をそのまま舞台に持っていこうと意識して台詞を書くことは、私もあるかもしれない。
伊藤:私は由梨ちゃんのことを、陰で「由梨さま」って呼んでいるくらい大ファンなんですけど(笑)、舞台上で立ちあげている世界の解像度がめちゃくちゃ高いなと思っていて。舞台の中では、説明のために必要な台詞だって、きっとあると思うんです。でも、ものすごく言葉が生きている感じがして。普段言葉を発しているときって、情報を伝達するために必要な部分より、ノイズの方が多いんですよね。由梨ちゃんがつくっている舞台は、そのノイズ感にすごく現実味があって、一気に「わかる!」ってなるんじゃなくて、じわじわと「わかるーーー」みたいな感覚がある。
山田:ノイズはたしかに大事にしてる。それでいうと、二人の作品も美しきノイズたちですよね。紺ちゃんの短歌を一つ読んでもいいですか?
<家電量販店の喧騒の中、誰にも聞こえないように「アレクサ」>
これって、すごく無防備な瞬間だよね。
伊藤:家電量販店みたいなすごく賑やかな場所だからこその孤独があると思っているんですけど、その孤独を救ってくれるものとして、恋人や家族じゃなくて、なんかアレクサを呼んでみた、って感じ。たしかにめちゃくちゃ無防備な瞬間かも。
山田:説明したり、何か意味のあることを言おうとするんじゃなくて、ある意味ノイズなんだけど、そこにこそ良さがあると思う。
伊藤:そういう瞬間を逃したくないっていう気持ちが大きくて。何かに実際に対峙したとき、押し寄せる感情やひらめき以外に、それらに満たない「こんなもんか」とか「こんな感じなんだ」って一瞬が誰にでもある。そこにこそ生きている匂いがするから、逃したくないと思うんです。
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