先日、望月万里さんという陶芸家の方の個展でお皿を買いました。初めて手に取ったのですが薄くて硬くて、まるでもう滅んだ大きな古代動物の骨の一部のようだと思いました。
不思議なことに、このお皿は鳴きます。静かな場所に迎えたばかりのお皿とわたしで二人きりでいると、お皿は居場所を主張するように、ときおり高く細い音をたてます。焼いたばかりの陶器の表面に施されている釉薬に「貫入」が入る音、これが、お皿の鳴き声の正体です。貫入という現象が起こったあと、よくよく光の下で見るとお皿に薄くひびがはいったような跡が新しく現れています。貫入はどの焼き物でも焼きあがった直後温度が下がっていく過程で起こってくる現象ですが、望月さんの作品の一部の軟性陶器という種類の陶器では、焼きあがったあとに比較的長くこの貫入音が聞かれ、わたしたちの手元に届いたあとにも、落ち着くまではしばらくこの貫入が入り続けるそうです。そして、貫入が落ち着いた頃には、新しく焼かれた陶器なのに、まるで何十年も前からこの世にあるアンティークのような雰囲気の、細かなひびに似た模様がうっすらと出ているのです。
わたしは、ふだんは病院で働いています。現代の医学では命を伸ばすことが難しい病状の方や、高齢の方の終末期に生じることのある苦痛をとる仕事をしています。
先日、すでに亡くなった患者さんからわたし宛に手紙が届きました。患者さんが生前に書いてくださっていたもので、わたしがその方を看取ることを見越して感謝の言葉が書いてありました。きっと周りの方みなさんに手紙を出して、自分がいなくなったあとに届くようにして逝かれたのでしょう。これまでの人生で避けがたかった痛みや苦しみ、その一方で感じてきた歓びと僥倖、それらを共有し、多くの方は初めてお目にかかってからわずか数週間で逝ってしまいます。見送ったあとにふりかえると、なんと短くも濃密な時間を過ごしたのだろうと思うことがしばしばです。わたしは自分のこの人生しか経験しておらず、まだしばらくは自分の人生は続くものと根拠もなく信じていますが、それでも亡くなる間際の方との対話を続けると、人の生は刹那のようだと感じます。また、どうやら亡くなっていく人たちもそのように感じているように思います。刹那の最期にありがとうと伝えてもらえるなんて、とその時は何とも面映ゆい気持ちになりました。
望月さんの器を手に入れたときに、生まれたばかりの器が急速に年月を経たように変わっていくのを見て、土や鉱物でできたものは自ら変化することはないと思いこんでいたことに気づきました。でも、そうではない。この世の何もかもそれぞれの性質を持ってその時なりに変化していく。陶器ではそれが一見喪われていくともできあがっていくとも見える。わたしたちの肉体や、精神や、魂はどうだろうか。ひびが入って変わっていくのだろうか。その変化にかかる時間は、先を見ると永久にも思え、省みると刹那であると思います。