昨年の6月中旬、新型コロナウイルスの感染者数が減って、他都道府県の移動が可能になったタイミングで、家族三人で三重県に越してきた。
引っ越しを選んだ理由は夫婦共にそれぞれあるけれど、私の気持ちとしては東京で10年暮らして「東京で生きていくこと」と「地方(田舎)で生きていくこと」を考えて、地方で生きていきたくなったのだ。
私は地域の人との関わり、道ですれ違う人は知っている人でも知らない人でもとりあえず挨拶を交わすことや、回覧板を届けるために歩く何でもない数100メートルの道、建物が何も見えないからこそ大きく見える空が大好きで、またあの世界で暮らしたいとぼんやり考えていた。
そんな気持ちは3年ほど前から生まれたのだが、それでも東京で暮らし続けていた理由は、子供を育てていく上では都心の方が育てやすいと考えていたことが大きかった。
例えば私は小さい頃、バレリーナを夢見てバレエを習いたいと親に頼んだのだが、私が住んでいる市にバレエ教室がなく、一番近くでも車で30分以上はかかるところにしか教室がなかった。家で自営業(花農家)をしていた我が家では往復1時間を超える車での送迎は難しく、私は泣く泣くバレリーナになる道を諦めた。
また学校に通うことが嫌になった場合でも、フリースクールや近隣の学校への転校など、「他の選択肢」が田舎だと必然的になくなることにも不安を感じていた。
私は学校が嫌になったり、行きたくないと思ったりしたことはないけれど、娘がどう感じるかは分からない。
小さい頃から美術の道に進みたかったが、それを学べる環境が少なかったこともあって、このまま都心にいた方が子供に何かやりたいことができたときに環境が整っていると考えていた。
もちろん公共交通機関で、べビーカー移動をしていて嫌な顔をされたり、子供が泣いて嫌味を言われたり、そういったことで肩身が狭い思いをして泣いたことも何度もあった。しかしそれは全部私が我慢すればいいことだと思っていたし、娘が大きくなるにつれてなくなっていく問題だった。それ以上に「やりたいことが全力でできない」「何かあったときに逃げ場がない(少ない)」問題の方が大きい。
美大に入学して、同級生と話していたときに地方出身者の中で、地元でとても生き辛かったと話した人が何人かいた。私は生き辛いとまで感じたことはないが、アートの道に進むことに対して「変わった子」というレッテルは貼られていたと思う。この「変わった子」のレッテルはとても嫌だったが、生き辛いとまでは思っていなかった。でもその生き辛いと語る子たちの気持ちもとてもよく分かる。
しかしコロナウイルスで生活が一変。今まで習い事や学校(保育園や幼稚園)が選べることを理由に東京にいたが、その全てが休みになり、ずっと引きこもりの生活。いつまでこの生活が続くか分からない中で、毎日娘と散歩にばかり出かけていた。
公園の遊具などで遊ぶことは控えていたので、家の近くに通っている川辺りをひたすら娘と歩く日々。歩きながら、地元だともっと広い空が見えるのに、と考えた。
歩きながら鴨を見つけたり、タンポポの綿毛を飛ばしては娘と楽しんだが、その楽しみが毎月毎月高い家賃を支払った上で成り立っているのかと思うと何だか虚しさを感じた。
周りのママ友もいつ再開するのか分からない習い事に見切りをつけてオンラインの習い事に変更する人が多かった。
結局全てオンラインで済むのであれば東京に住んでいる必要はないのではないか、と旦那に相談し、とりあえず私の地元の三重県に引っ越してきたのだ。
田舎だと逃げ場がないと思っていたが今は私たちが子供のときとは違う。ネットの世界が充実していて、学校の逃げ場となるスクールも習い事も一通りどうにかなりそうだ。
私が暮らしていた頃から15年が経ち、家も増えて見えている景色は少し変わったが、空気は変わらない。相変わらず空は広いし、道の横に生えている草は美しい。人は適度な距離で温かい。近所の人からとうもろこしを貰ったので、私はお昼ごはん用に多めに作ったグリーンカレーを渡す。次にスパイスカレーを作ったら、あの人にまた渡そうかな、と考える。
「自分らしく」生きることが自分の地元(田舎)に戻ることだとは思わないけれど、娘を保育園に迎えに行くときにトトロが出てきそうな森林のトンネルを抜けることや、その坂道を登ったときに下に見える大きな工場。お墓参りのたびに見える夕日を見て綺麗だな……と感動することは自分らしいな、と思う。そうやって田舎道を歩くだけでいちいち感動したり、ワクワクできるのが私なのだ。
私たち家族が三重県で生活するのは娘が小学校に上がるまでで、後1年半後にはまた何処か違う土地に移動する予定だ。何処に行っても自分が愛せる場所を探そう。それだけで私は自分らしくいられるはずだから。