Text: Akari, Cullen Photo: Akari Edit: Yume Nomura
4月10日(金)
カレンが書いた燈里の日記
This is the last dairy entry I will write for my project. It has been a week and I've leaned more than I thought I would about myself through this experiment. And about the two of us together. Where Cullen is light I am heavy, and where he's heavy I'm light. Where I am dark he is bright and vice versa. Like when Finland spends half a year in near 24-hour night, then the other half in near 24-day: two rotations of an extreme that are both spectacular. The two of us are linked by mathematical inversion, not in opposition, but in supplementary proportion. Two structures of sturdiness and flexion in equal proportion yet in different distribution. We share a relationship in which one swells while the other recedes, like peaks and troughs of a wave, complementary and not contradictory. Apollo and Dionysus: two extremes bound together by necessity out of a high cosmic symmetry. In the beautiful way that two things are one thing split in half, like Hedwig said. Writing together has been like a ballet of small twiggly - legged birds on the sand chased away by the crashing waves only to scurry back towards the sea as it recedes. The particular charm of writing is to lift towers and mountains into the air and to give weight to leaves, raindrops, and rays of light, and I think this is what Cullen and I have realized we can do by doing it together.
燈里が書いたカレンの日記
0時、台北発高雄着の新幹線に乗った。隙間の場所で過ごすのが好きだ。深夜の新幹線、2人乗りのバイク、夜明けの空を見ながら橋を渡るタクシー、飛行機の搭乗時刻を待つ空港のゲート。運命に開かれていて、何でも起こりうる特別な場所だ。
新幹線でウェイホンのことを考えた。出発直前、珍しくウェイホンが思い詰めた顔をしていたので、ダイニングに座らせて話を聞いた。自分のストレスや感情を言葉として他者に晒せず、どんどん自分の中に溜め込んでいってしまうと言う。まさに英熟語の"still waters run deep"だ。水面は動かないように見えて、その下で水は深く流れている、つまり、ウェイホンの穏やかな性質が彼の内面の混乱や情緒を見えにくくしている。台湾は世界史上最も長い38年間の戒厳令が敷かれていた。戒厳令が解除されたのは1987年、ウェイホンが生まれた年だ。戒厳令下では無実の人々が政治弾圧のために処刑され、言論の自由がなく個人の声は暴力によって押し殺された。同じ抑圧構造が国レベルだけではなく、コミュニティに、学校に、家庭にあり、戒厳令が解かれた後もその構造は再生産されたと言う。戒厳令の歴史はウェイホン個人の傷であり、社会全体で共有する傷だ。この巨大な傷を私達は語り直し、癒し、修復することができるか。ウェイホンは今週から私達と同じように排泄としての日記を書き始めた。自分を正直に表現する練習だそうだ。
高雄に向かったのは週末をフェルナンドと過ごすためだ。私は歌手のフェルナンドのピアノ伴奏をしている。オーディションに向けて一緒に練習し、曲作りをした。歌詞を書くのは面白い体験だ。メロディーやリズム、速度、曲の長さに合わせて文を構成しなければならない。ビョークの"Hyperballad"を繰り返し聞き、彼女があの力強い歌詞をどのように音楽に合わせてコントロールしているのか知ろうとした。時に制限は新しい表現の扉を開ける。今書いているこの文章も、相手のノートの断片的な情報を元に相手の日記を書く、という条件があるからこそ、自分の境界線や限界域を越えられる。
フェルナンドはラテンジャズを歌うが、ジャズのリズム感覚や民俗性、即興は私には馴染みがなく、どうしても体に沿わない感じがした。代わりに作詞の練習にディスコを選んだ。既存のディスコの曲の歌詞を書き換えてみた。ディスコの歴史はそのまま私の人生に重なる。ディスコは悲哀と希望を踊りに昇華している。ドキュメンタリー映画『パリ、夜は眠らない』がよく捉えているように、ディスコは周縁化された者達が安全に自己表現し所属できる政治的な音楽だ。ディスコには社会状況やコミュニティの連帯が反映され、その過程で発展してきた。人の愛し方も尊さも民主主義も、大切なことは皆ダンスフロアで学んできた。
夜は『ル・ポールのドラァグ・レース』シーズン12の新しいエピソードを観た。どんなに忙しくても最新話が出た当日に必ず観るようにしている。ゲストとしてAlexandria Ocasio-Cortezが登場して興奮した。アメリカの政治家の中で唯一彼女だけ支持していて、私達の希望だ。ショーの中でAOCはドラァグクイーン達に語りかけた。"People think congress and the government is all that leading people, but ultimately a lot of our politics is about following the public will. And people who change what people think are artists and drag queens."思わず瞬きして涙が出た。何度でも忘れてしまうが、私達が主権者であり、民意を変えられるのは私達一人一人の表現行為だ、そして政治が私達に付いてくる。表現や自由な思想は素晴らしい。2019年5月からアジアで初めて台湾で同性婚が可能になったが、LGBTQの権利を求める運動もダンスフロアから始まった。台湾の住人、特に若い世代は、戒厳令の教訓から、人を統一し、平均化し、同じ方向を向かせようとする圧力に徹底的に抵抗する姿勢を貫いてきた。抑圧する権威に対して、現代アーティストやドラァグクイーンが率先して表現をもって批判し問いかけてきた。resilience, 今台湾は戒厳令から回復の過程にある。ウェイホンもそうであるように。
高雄市は水の都市だ。愛河という川が町を横切り、また港町として発展してきた。夜思いつきでビーチに行くことにした。まさに台湾の若者が好きな「夜衝(衝動に駆られるままバイクで夜を冒険すること)」だ。フェルナンドのバイクの後ろに跨った。彼のアパートから海までバイクで5分だ。風のない夜で、静止画のような海面を月が照らしている。以前高雄市立美術館で"Still Waters Run Deep"という企画展示を見たことを思い出した。どの展示室でも高雄で制作された各作品の水音が響いていた、川の流れる音、噴水が滴る音、谷に木霊するチェロ、漁師として働く移民達の歌。例え潮流が見えなくとも、あちこちで激しく流動する水の音が私達には聞こえている。
- 7
- 7