「見えない傷口のために」 文月悠光
「勝手に良くなったと判断しないで。
一見治ったように見えても、
皮膚の奥では治りきっていませんから」
医師の言葉に、思わず己の手のひらを見た。
手湿疹でささくれまみれになっては、
つるんと指輪をかむってみせる中指。
わたしは油断してすぐ塗り薬をサボる。
どうせ我慢できずに掻きむしるのだから
またいちから薬を塗り直せばいいと。
浅はかな思惑を見透かされたようで、
カサカサの右手を左手の下にカサコソ隠す。
薬を塗る指と、塗られている指。
夜半掻きむしる指と、掻きむしられる指。
手のひらよ きみは一体どうしたい?
ひとの言葉が刃であるのなら、
唇はあらかじめ備わった傷口だろう。
あなたへの伝わらなさに苛立つとき
噛みしめて思う 唇は傷口であると。
言葉を発するほどに、傷は深く重くなる。
誰もが持つ無防備な傷口のために
四角い包帯が配られる。
もちろん、わたしの存在を「わたし」だけに
閉ざしておくことはできない。
マスク越しにも汗をかき、涙は伝う。
悲しみをほどいても、心は埋まらない。
「満たされる」とは
自分を最高の相棒にすることだ。
この身体を留めつづけるために
響くような怒りと傷が必要だ。
傷は癒えていく、
波紋がなだめられていくように。
心は ふるえる水面。
ひとたび石を投げ込まれたら乱れてしまう。
けれど枯れない泉のおかげで、
わたしは水平線を抱くことができる。
たとえ癒えない傷も 安らぐように。
だから心の水を抜かないでください。
ぜんぶ抜かないでください。
つたない感情を恥じなければ、
傷はやがて癒えていく。
手のひらを見る。
奥の奥まで問いかける。
新たにふさがった傷口は
何かの証のように光りはじめる。
光が傷を飲みこんで
今ようやく言葉になった。