中学校にいい思い出はなかったのに先生になったのは、嫌な思い出をいいものに変えたくて。
ゆりしー:大学院を出てからは、どうやって食べてたんですか?
とんぼせんせい:教員免許を持ってたんですよ。大学院生のときに、今後食うに困ると思ったから免許を取ったんです。
ゆりしー:「せんせい」だ!
しをりん:人生設計がしっかりしてる~。
とんぼせんせい:なので大学院を出たあとは、中学校の技術の先生になって。
げっちゃん:半田ごてとか教えてたんですか?
とんぼせんせい:やってた! 電圧について教えたり、本棚や手回しライトを作らせたり。授業は週1、2回だったけど、期末テストとかもやらなきゃいけないから、「この金槌の正式名称は?」とか「カンナの歯は何ミリ出てるのが適切か?」とか問題を作って、採点して。
とんぼせんせい:先生をやっててきつかったのが、同じ内容を1日のうちに1年1組、2組、3組……って何回も教えなきゃいけないことで。だから自分が飽きないようにちょっとずつアレンジしたりしてましたね。
しをりん:芸人さんの漫才みたいですね(笑)。
とんぼせんせい:そんな感じです。それで、最初の学校は2年くらいで音を上げたんですけど、そのあとにまた別の中学校でも教えていて。そこは中高一貫のめちゃくちゃ頭がいい進学校で、授業は基本的に半日だけだったし、進学校だからイベントがいっぱいあって、授業もよく潰れるうえに、ボーナスも出る。それに職員室へ行かずに、美術室に行って帰ればいい(笑)。そんな感じで相性がよかったので、そこでは6年くらい働いてました。
げっちゃん:さっき、中学校にいい思い出がないって言ってましたけど、もう1度学校に戻るのは嫌じゃなかったんですか?
とんぼせんせい:嫌だった! でも嫌な思い出をいいものに変えたくて。乗り越えなきゃいけないと思ったんです。
しをりん:立場も違いますしね。
とんぼせんせい:それに、自分が通っていた中学校とは環境も雰囲気も全然違ったから、かえって価値観が広がりましたね。その進学校で働いていた頃は、知的障害を持つ人たちが暮らすグループホームで、生活のサポートをする仕事も掛け持ちしてました。『1_WALL』(写真とグラフィックデザインのコンテスト)のファイナリストになったタイミングで辞めるまで、大体5年はやってたかな。4人くらいで共同生活をしている一軒家に行って宿直して、ご飯を作ったり、お風呂や寝るタイミングを促したり、掃除したり。
ぱいせん:めちゃくちゃすごいお仕事。
「どうだ、これって新しいだろ!」と思いながら作るものって、不自然なのかもしれない。
ゆりしー:作家活動の話に戻ると、彫刻はそこまでの間ずっと続けていたんですか?
とんぼせんせい:ですね。大学院を出てから、ずっと学校の非常勤講師やグループホームでのバイトをしながら制作をしていて、バイトはお金を稼ぐためにすることで、制作は自分がやりたいこと、っていう風に分けていました。でもだんだんと、収入を得ることとクリエイティブなことを結びつけられないかな、と思うようになってきて。それであるとき「漫画とかいいじゃん」って思いついて、漫画を描き始めたんです。
ゆりしー:そこで漫画っていうのが結構突然な感じがしたんですけど、現代美術を学ぶために大学院まで行って、その後もずっと彫刻をやっていたのに、あっさりと漫画へ転向できたものなんですか?
とんぼせんせい:大学院時代に、自分よりもセンスのいい人たちが周りにすごくたくさんいたこともあるし、田舎から出てきて、大学でいきなり現代美術の世界に入ったけど、ちょっと無理してたことにその頃気づいたんですよね。現代美術への憧れが強すぎて、作ったものが「何かっぽいもの」にしかならなかったし、地方に生まれて、サンリオとか漫画とかテレビとか、いわゆるマスなカルチャーで育った自分が、現代美術みたいなハイカルチャーなことをやっているのに疑問を感じて。それで一旦振り出しに戻って、子供の頃に興味を持っていたことをやってみようと思って、4コマ漫画を描いてTwitterにアップし始めたんです。
ゆりしー:どんな4コマだったんですか?
ぱいせん:気になるね。
とんぼせんせい:ちょっと可愛い感じの不条理系というか。タッチは今と全然違いますね。周りからの評判も結構よかったから、出版社に漫画の持ち込みに行ってみたら、とある出版社で担当の人がついてくれたんだけど、漫画ってまずは賞を取って、そのあとに連載を得るというステップがあって、それが邪魔臭いなと思うようになって。だったら自分で描いたイラストをグッズにしたりする方が早く自分の作品を知ってもらえるかもしれないなと思って始めたのが、とんぼせんせいなんです。2011年くらいだったかな。
しをりん:震災前ですか?
とんぼせんせい:時期的には被ってますね。その頃はまだ彫刻作品の展示もやっていたんですけど、ちょうどグループ展の時期が震災と重なったんです。既存の価値観を変えることを目指して作品を作っていたけど、震災が起こって、そもそもの世界観が変わっちゃったなと。これからは以前のようなスタンスで制作することができないなと思ったこともきっかけになって、笑った顔の、明るくポジティブなイラストを描き出したんです。
ゆりしー:その時点で、今のとんぼせんせいに近いイラストだったんですか。
とんぼせんせい:かなり近いです。当初は「かわいいからいいかな」くらいの感じで、意味も考えずにひたすら描いていて。「3本の線を引くとどこにでも現れる」みたいなことを意識的に言い出したのは、描き始めてから3年経った2014年に『1_WALL』でファイナリストになった以降です。『1_WALL』の審査員から、「この顔がつけばなんでもあなたの作品になるんじゃないの?」って言われて「ほんまや!」って。それまでは3本線の顔が大事だっていうことには全然気づかなかった。
ふくろうが沢山来ました。
そろそろ販売しようと思っていますが価格を検討中です。
千円オーバーになったらごめんね。 pic.twitter.com/nvAmC7BC— とんぼせんせい (@tombosensei) 2011年11月12日
2011年に作った、ふくろうのワッペン。
未完成一同:へええ!
ゆりしー:最初にとんぼせんせいの作品を知ったときに発明だと思ったけど、そもそもは自覚的じゃなかったんですね。
とんぼせんせい:それが逆によかったのかなと。「どうだ、これって新しいだろ!」と思いながら作るものって、不自然なのかもしれない。本当の発明って、失敗を経た結果、たまたま生まれるものなんじゃないかなと思っていて。だから、言われて気づいてしっくりきたというか。未完成にもそういうこと、あるかもしれんね。
しをりん:確かに、未完成も自分たちが考えてもみなかった風に解釈していただくことがありますね。
とんぼせんせい:『2001年宇宙の旅』なんて完全にそうだと思うんだけど、勝手に周りが深読みしてカルト化していくことってあって、それが表現のあるべき姿だと思う。本人は好きだから夢中で作ってるだけなんだけど、周りが「これって実は新しいんじゃない?」って思ってくれるのは理想的だなあと。