She isのイベントと共に記事を記憶しているよ、という声も寄せていただいています。オンラインでもオフラインでも、その場限りの時間を共有してくださった方からの声には、どこか親密な温度が宿っている心地がしてほころびます。「イベントには参加できなかったけれど……」と想いを馳せてくださった方とも、またいつかきっとご一緒できることを願って。
3周年おめでとうございます。
2018年9月16日の原宿のイベントに行ってから、ことばが響いています。
Twitterで記事を見直してみましたが、やっぱり最近のこれが1番ひびきました。
#無敵かもしれない
最近はじめのことばの「自分のことをたったひとりだと感じ~」ぐっとやられました。
映画のはなしも共感。
ちゃんと見てるよ、という仕事の記事もよかったです。
私ごとですが、人生こんなことある?という最近の夜が続いていました。
体調も悪かったり、いろいろあったここ最近のプライベートの中で、いざ!
無敵の土台を作っていきたいと思えました。
こんな少ない言葉で、ぐっとくるなんて、共感できるなんて、久しぶりです。
この言葉に出会った朝は久しぶりのとても気持ちの良い朝になり、1日がんばれたのも久しぶりでした。
ありがとうございます。
そして、こうやって3周年というタイミングに伝えられたことに感謝です。
引きつづき、寄り添っていきたいです。
(めめめさん)
吉澤嘉代子×穂村弘「できない」から助けを求めた「言葉」への執着
“吉澤嘉代子×穂村弘「できない」から助けを求めた「言葉」への執着」”より
こちらはシンガーソングライターの吉澤嘉代子さんと歌人の穂村弘さんをゲストにお招きして実施したMembers限定のイベント『「言葉の夜会」 ~まばたくたびに春の夢~』のレポート。「いろんなことができないから、本や言葉に助けを求めるようになった」という穂村さんの言葉や、衣装替えをしながらライブを披露してくれた吉澤さんのMCが、画面越しにもまっすぐに届いてきます。
「出来る」ことによる損失に目を向けられた記事。吉澤さんも穂村さんも参加されたイベントがあったなんて!!時間が巻き戻ってほしい…行きたかった…
(ペリカンさん)
以下のコメントで今日子さんが触れてくださっている「公募システム」も設けていた個人の声を集める「VOICE」は、Girlfriendsの方にもMembersの方にも、まだそのどちらでもない方にもご参加いただくことのできるコーナーです。「VOICE」は編集部にとっても、毎回思わぬ出会いをもたらしてくれる大切な場所ですが、読者の方からも「好き」をいくつも寄せていただきました。
先日のGirlfrends Roomでお二人が出演されているのを見てから読みました。イベントの内容とも繋がるのですが、個人的な経験を開くことで、私みたいな実際には遠くにいる女性たちを元気づけたり勇気づけたりすることを、小さくても確実にされている文章たちだなと、イベントの夜のお二人の言葉にも(もちろん他の方の言葉にも)、記事に書かれていることからも実践されていて、とても好きです。She isの公募システムも、毎回どれくらいの応募があるのか分かりませんが、とてもいいなと思っています。私も書いてみようかなと、今これを記入しながら思いました!
(今日子さん)
こちらは、銀座にある会員制の高級クラブで「あんたみたいな子を待ってたのよ」という魔法の言葉と共に、ママのブログやメールの代筆バイトを始めたという経験をもとにしたVOICE。小泉綾子さんがご自身の人生と近い距離から放つ言葉のひとつひとつに、みるみる引き込まれてゆきます。
自分の経験を語るときは丁寧に、相手の反応を見ながらドラマのように語ること。それから誰かが話し始めたら、最後まで聞くこと”
これができるようになれたらといつも思います。自分が何気なく歩いている時にも、近くでは色々なドラマが起こっている。気づいていないだけで……。それを教えてくれた文章でした。
(kuuさん)
“「今はもう大丈夫」バスタブのイメージワーク/安達茉莉子”より
安達茉莉子さんは「自分自身が壊れている」ように感じたときに、密かに実践してきたというイメージワークを文章とイラストで紹介してくださいました。まず、自分をバスタブのような「器」のように捉える。次に「光のパテみたいなもの」をイメージする。光のパテが傷やヒビを塞いでいくようなイメージをしながら、傷ついたその部分に向かって声をかける(あるいはひたすら光のパテを当てるようなイメージをする)。誰かに優しい言葉をかけてもらっても、何をしても、どんどんそれが漏れていってしまうような気分を感じたことのある方に、どうかこの記事が届きますように。
心にわだかまりがあったり、身体が無理をしているときの何も感じない、聞こえない、大切なものがすり抜けていくようなときこの記事に出会いました。イメージワークはまさに私が必要としていた心の整え方で、言葉がとてもあたたかく気持ちがラクになりました。
(おはようサンサンさん)
「母も娘も、誰もがただ一人の個人です」。小林エリカ、母娘を語るしんどさと向き合い、不機嫌な自分も愛でていきたい
ある悩みが心の中を埋め尽くしているとき、必要な言葉に無意識に手を伸ばす力が人には備わっているのかもしれないと感じるときもあります。家族との関係に悩んでいるときに小林エリカさんの記事と出会ったというMembersの方は、記事に綴られた言葉の海に深く潜るようにして、感想を紡いでくださりました。
当時、母との関係にひどく悩んでいました。「どうしたらうまくやっていけるのだろう」と思っていたところ、この記事に出会いました。
“母にも、恋をしたり、娘であった過去の時間があったわけだけど、私はそれを知らない。~中略~目に見えるものの向こう側にある、人の見えない部分にどうやったら気付けるのかなっていつも考えています。”
娘から母への想像力、母から娘への想像力、どちらも欠けていたのだと思います。それを少しずつ実践できるよう、対話を重ねて努めてきました。あくまでもお互いのプライバシーを守りながら。「娘」も「母」も、“一人の個人”だからです。
「母」、「娘」などの役割でその在り方を規定されてしまいがちですが、そうではないことをこの記事に教えてもらいました。
(その後、小林エリカさんの作品を片っ端から読みふけり、今では大ファンです。)
あれから私の「姉」は「母」になりました。この記事の写真に添えられていたあるキャプションをよく思い出します。
“1歳9か月のお子さんがいらっしゃる小林さんは、「子どももいるんだし、しっかりしなきゃ」というよく言われるこの言葉のおかしさに気づけなかったことに愕然としたと話します。改めて考えてみれば、「しっかりすること」に子どもがいるかどうかは関係ないこと。”
「娘」は「おばちゃん」になりました。「母」は「おばぁちゃん」になりました。これから私も「母」になるかもしれないし、「姉」の子にも「きょうだい」ができるかもしれないし……。変わり、そして増えてゆく自分の肩書きに向き合い悩みながらも、“誰もが一人の個人”であることを忘れないでいたいと思います。
(やしぞうさん)